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星を見て喜んだ

彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。
すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、
ついに幼子のおられる所まで進んで行き、
その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

               マタイ2:9,10

イエス・キリストの誕生の知らせを知った博士たちが星に導かれて、イエスのいる所までたどり着くことができました。今でこそカーナビとか便利なものがありますが、昔は全然わからないところへ行くわけですから検討もつかなかったはずです。それでも星が頼りとなってくれました。

私たちの人生でも道を示して案内してくれる人があればいいのですが、行き詰ってわからなくなることばかりです。そこでどちらに行くべきか悩み、迷い、そしてうまく抜け出せればラッキーなのですが、うまく抜け出さず、ますます迷いの森に入り込んだら最悪となります。

神は博士たちに星を示されました。であればわれわれの歩みの中でも星を示してくださるのではないでしょうか。これが道だ。これを歩めと示してくださるのです。それに気づくことが大切でしょう。神の導きを認められるように目を開いて、感覚をとぎすましていくようにしたいです。

博士たちは星を見て喜びました。その星が確実にイエスのところへ導き、連れていったからです。今日はクリスマスです。さいわいな出来事がありますように。
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  1. 2008/12/25(木) 17:17:49|
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救い主が

きょうダビデの町で、あなたがたのために
救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
  ルカ2:11


クリスマスの夜の出来事です。夜になってキリストはお生まれになりました。ベツレヘムの馬小屋で誕生したのです。そのときには、両親のヨセフとマリアしかいませんでした。そんなさびしい、不安な中でお生まれになったのです。誕生をお祝いしてくれたのは馬や牛たちだったのです。

そのとき、同じベツレヘムで羊を飼っていた羊飼いたちに、御使いたちが現れて、救い主イエスの誕生を知らせました。ダビデの町とはベツレヘムのことです。きょう救い主がお生まれになった、というのです。しかもあなたがたのためにです。羊飼いはびっくりしてその知らせを聞きました。やがて、その赤子のイエスを拝みに行くのですが、イエスの誕生は他でもない、あなたがたのためになされたという知らせです。

もっと言うなら、イエスの誕生は私たちのため、いや私のためにあったということを知っていただきたいのです。そのように御使いはメッセージを伝えております。このイエスを信じるなら、どんな人であっても救われます。救い主として誕生されたのですから。感謝します。今日はクリスマスイヴですが、じっくりとイエス・キリストの誕生の意味を考えてみるのもいいのではないでしょうか。
  1. 2008/12/24(水) 15:39:06|
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インマヌエル

見よ。処女がみごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。
(訳すと、神は私たちとともに
おられる、という意味である。)
 マタイ1:23


クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いするお祭りです。教会ではたいていこの日を記念してお祝いの時をもちます。キリストがこの世に誕生されたのが、この頃だろうということで定められたのですが、聖書にはキリストの誕生のことは書かれていますが、いつ(年月日)までは詳細に書かれていません。それでおよその判断で12月25日となっています。

今やクリスマスを知らない人はいないです。ちょうど学校が冬休みに入ったり、年末年始が近いこともあって気分的にもうきうきするものです。しかし本当のクリスマス、すなわちキリストの誕生のときはそんな状況ではありませんでした。世は暗黒、政治的にも、経済的にもユダヤ人にとっては閉塞感と拘束されている思いでいっぱいになっていました。

今の世界も経済恐慌の再来のようで、不安や恐れが世界中を覆っています。そんなときにキリストは、なんと馬小屋で誕生されたのでありました。彼のことを御使いが、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と語っています。インマヌエルとは「神はわれらとともにおられる」という意味です。かつてのイスラエル民は神がともにいて、見離すことも見捨てることもない、といつも信じていました。実際にモーセはイスラエルをエジプトの奴隷から解放しましたが、そのときも神がともにいて不思議やしるしでイスラエルを守ってくださった、と述懐しています。

手イエスはインマヌエルの神です。私たちといつもいっしょにいてくださいます。うれしいときも、悲しいときもいつもいっしょにいてくださいます。主イエスはインマヌエルの神として世に生まれてくださいました。
  1. 2008/12/23(火) 15:12:12|
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いつ来られるか

だから目をさましていなさい。
あなたがたは、自分の主がいつ
来られるか、知らないからです。
 マタイ24:42

目を覚ましていなさい。冬は寒いですから、起きるのがつらいです。目は覚ましているが起きるのはしばらくしてからとなると、時間に遅れることになりかねません。目を覚ましてなら、一思いに飛び起きる勇気が必要です。

ここでは、自分の主がいつ来られるのか、とあります。主イエスは33歳で十字架にかかり死んでいかれました。その後、墓に葬られて三日目によみがえられたのです。それからしばらく弟子たちにご自身を表されていましたが、あるとき弟子たちの見守る中を、天に帰っていかれました。

そうしてもう一度、この地に帰って来ると約束されたのです。弟子たちはすぐにでも帰って来られると思ったのですが、主はまだ帰ってはおられません。もう一度戻ることを再臨と呼んでいます。再臨はいつあるのかは、聖書には明らかにしていません。ある日、突然やってくるというのです。妊婦に痛みが突然襲うように主も突然やって来られます。

その日、そのときがはっきりしないので眠っていたら、チャンスを逃してしまいます。いつ来られてもいいように備えておく必要があるのです。まずは、目をさまして信仰に立って歩むべきであります。そんなに遠くないうちに来られるような気がしてなりません。
  1. 2008/12/22(月) 14:52:10|
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主のわざに励みなさい

私の愛する兄弟たち。
堅く立って、動かされることなく、
いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分の労苦が、
主にあってむだでないことを
知っているのですから。
 Ⅰコリント16:58


男の人たちのことを兄弟と教会では呼んでいます。男の人たちは堅く立って、動かされてはいけないのです。ふらふらと心が揺れて何もできないということのないように、しっかりとした思い、しっかりとした意思を持って行動したいものです。

いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。全力投球で動きなさい。適当に手を抜いたり、気持ちが込められていない動きはしてはいけないのです。ましてや、神のために働きをするのであれば、全身全霊をもって働くのは当然のことです。

ここで自分たちの労苦がむだでないとあります。奉仕や働きが時としてむなしく感じられるときもあるでしょう。こんなことやってて何の得になる、とか、むだやないかとつぶやいてしまいそうなときに、いやいや主にあってわれわれの労苦はむだにならないのだ、と自分に言い聞かせてみる必要があります。

クリスマスに教会では盛大なお祝いをします。何と言ってもキリストの誕生されたことのお祝いですから祝うのは当然です。しかし、最初のクリスマスは貧しい馬小屋の中で、しかもだれもお祝いに来てはいなかったのです。それでも天使がこのすばらしい知らせを羊飼いに伝え、彼らは赤子のイエスを拝みに馬小屋まで駆けつけてお祝いしたのです。

野宿して羊を飼っていた彼らは本当に幸いでした。むだなことを主はなさいません。どんなつらいときでも、それを幸いに変えてくださいます。信じて歩みましょう。
  1. 2008/12/21(日) 18:47:11|
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わたしにした

まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、
わたしにしたのです。
 マタイ25:40

主イエスは、貧しい人に施しをしたり、病人を見舞ったり、旅人をもてなしたりしてくれたことに対して、これらの最も小さい者たちにしてくれたことに感謝して、「それはわたしにしたのです」と言われました。そんなつもりでなくても、主はこころから感謝の気持ちを表されたのです。

私たちは仕事だからとか、お金のためだとか、いろんな思いでやってるのが普通です。そのような利害を超えて、愛のこころで善を行なえればどれだけ幸いでしょう。損するとか、無駄だとか、思われることに進んで施すのです。

歳末助け合いなどが今でもなされています。今年はそんな余裕はない、という人もいるでしょうが、世界にはもっと貧しい人たちも大勢います。少しでも役立つなら与える気持ちを持ちたいものです。それはほかでもない、神に対してやっていることになるのです。
  1. 2008/12/20(土) 15:26:26|
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生ける望み

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、
イエス・キリストが死者の中からよみがえられた
ことによって、私たちを新しく生まれさせて、
生ける望みを持つようにしてくださいました。
また、朽ちることも汚れることも、消えて
行くこともない資産を受け継ぐようにして
くださいました。これはあなたがたのために、
天にたくわえられているのです。
 Ⅰペテロ1:3,4
  1. 2008/12/19(金) 20:38:01|
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失望に終わることがない

そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が
練られた品性を生み出し、練られた品性が
希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 ローマ5:3-5


希望は失望に終わることがありません。何といううれしい言葉でしょうか。今の現実は失望することばかりです。派遣切りという無情な言葉が毎日のように聞かれます。その中に職を失い、住居を失った人がいるわけです。

希望をしっかりもって生きることが大事です。しかし、希望をもってまじめにやっていても失望はやってきます。聖書で語られている希望とは、世や世の中のものに対してもつ希望ではありません。神に対して絶対的希望を持てるというのです。神は信頼して従う者に対して、決して失望で終わらせるようなことはなさいません。

神は愛です。愛である神が私たちを愛してくださっていますから、失望させられることはありえないのです。神の愛が注がれているのです。それは聖霊によって注がれています。神は霊的なお方ですから、聖霊により注いでくださることが体験的に伝わってきます。愛されているのだ、という実感が与えられるのです。
  1. 2008/12/18(木) 16:50:23|
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ただ神の栄光を

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも
飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を
現すためにしなさい。
 Ⅰコリント0:31


私たちは何をするにも、神の栄光のためにします。食べるのも、飲むのも、何をするにも神の栄光のためにするのです。

よく外国の人がスポーツをするとき、神のためにやっている、と告白することがあります。人によっては十字を切る仕草をします。野球でも、サッカーでもそうです。ゴールを入れたときに、天に向って感謝の祈りをしています。ホームランを打ったり、ピッチャーが完投して勝利したときなど、神に感謝するのです。

彼らはスポーツを神の栄光を現す場所と考えて一生懸命にするのです。日本人には神のためにといった考えは少ないです。クリスチャンであれば、そのようにするのでしょうが、一般の人は自分のため、チームのためと考えます。

何をするにも神の栄光のためにしていくなら、もっと神に喜ばれよう、という気持ちになれます。少しでもそのような思いが与えられるように祈るものです。
  1. 2008/12/17(水) 21:06:25|
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愛を着けなさい

そして、これらのすべての上に、
愛を着けなさい。
結びの帯として完全なものです。
  コロサイ3:14


愛を着けなさいとあります。愛の上着を身につけて生きなさい。愛は結びの帯として完全なものです。着物を着る人は帯を締めます。その帯が緩んでいては着心地もわるいでしょう。しっかりと締めていれば着崩れることはないでしょう。

人間関係も最後は愛が問われるのです。愛の帯でしっかりと結ばれているか。特に教会では愛が説かれていますので、どのような人に対しても愛で結ばれてよい人間関係を保てるようにしないとなりません。
  1. 2008/12/16(火) 15:39:21|
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罪を言い表す

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、
神は真実で正しいかたですから、その罪を
赦し、すべての悪から私たちをきよめて
くださいます。
  Ⅰヨハネ1:9


  1. 2008/12/15(月) 15:26:25|
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賜物を用いて

それぞれが賜物を受けているのですから、
神のさまざまな恵みの良い管理人として、
その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

             Ⅰペテロ4:10


賜物を聖書ではタラントとして表現されています。お金の単位ですが、相当の価値のある単位です。ここから英語のタレントが生まれました。今や芸能人を表す言葉として、一般的には使われていますが、もともとは神が特別に与えられた能力のことを意味していました。

その賜物は人によって異なっています。音楽の得意な人にはその賜物が与えられているといえます。絵が上手な人はその賜物が、ことばの上手な人はそのような賜物が与えられているのです。人によって異なりますから、お互いを認め合って、その賜物を上手に用いたらいいのです。

ところが人は相手あって自分にないものを妬み、逆に自分にあって相手にないことに優越感をもったりと、実に浅はかであります。賜物をもって、それを用いて互いに仕え合いなさいというのが、神のみこころ、願いであります。どれだけの人がこのことを理解しているでしょうか。

与えられた賜物を用いないといけません。しかも神のために、神の栄光のために用いるのです。そうするなら高ぶることも、卑下することもありません。どうぞ、神の豊かな祝福がありますように。
  1. 2008/12/14(日) 16:10:06|
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詩と賛美と霊の歌

酒に酔ってはいけません。そこには放蕩がある
からです。御霊に満たされなさい。
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、
主に向って、心から歌い、
また賛美しなさい。
 エペソ5:18,19


酒に酔ってはいけません。クリスチャンは酒を飲んではいけません。教会によっては飲酒を禁止しているところもあります。禁止はしないが、黙認しているところもあります。牧師から進んで飲酒しているところもあります。昔は清教徒の流れから、厳しく飲酒をしていた教会がほとんどだったようですが、最近はやや緩和された(崩れた)のでしょうか。

酒に酔ってはならないのであって、酔わなければ飲酒はいいのだ、と理屈を言う人もあります。別に各人の自由ですから、とやかくはいいません。ここでは飲酒のことよりも、それ以上に、教会では詩と賛美と霊の歌とをもって語り合いなさいとあります。教会の礼拝は、人が酒に酔ったような陶酔感があるというのです。なんともいえない喜び、感謝、幸福な思いが賛美の中から流れてきます。

そのような礼拝で聖霊の恵みに満たされて酔いなさいというのであります。酒に酔って悪くなる人もあります。凶暴になったり、くどくなったり、泣き出したり、、、。聖霊に酔ったら逆によくなってきます。神への愛が豊かにわいてきます。人への愛が同じく豊かにわいてきます。解放されてイエスさまだけで充分。もうなにもいらない、という思いに満たされてくるのです。詩と賛美と霊に歌によって心から霊的な礼拝を捧げたいと願う者であります。
  1. 2008/12/13(土) 16:22:06|
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聖でなければならない

あなたがたを召してくださった聖なる方に
ならって、あなたがた自身も、あらゆる
行ないにおいて聖なる者とされなさい。
そえrは、『わたしが聖であるから、
あなたがたも、聖でなければならない』
と書いてあるからです。
 Ⅰペテロ1:15,16


聖なる者になりなさい。なぜなら神が聖なるお方ですから。聖なる者とは、世俗から離された人です。世には欲が多くはびこっています。目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、それらが世俗を表すものですが、そのような世俗から離れて聖なる生き方をする。

そういうと、何か窮屈な感じがします。決してそうではありません。むしろ欲望にとらわれた生き方こそ自由のない生き方だと思います。人間の欲望はアリ地獄のように底がないからです。その壷にはまるともう取り返しがつかなくなるのです。

聖なる生き方は束縛ではなく、むしろ自由を満喫する生き方です。神は私たちに自由を与えてくださるのです。たましいが生き生きと生かされ、罪の恐怖や不安から解放させてくださいます。真理に従えば力があり、真理に逆らえば力がない。神に向うときに自由が与えられます。聖なるとは、神に真実に向うときに与えられるものであります。
  1. 2008/12/12(金) 18:16:08|
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成長

それは、私たちがもじゃや、子どもではなくて、
人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により
教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばされ
たりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、
あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに
達することができるためなのです。
  エペソ4:14,15


私たちの目標は、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することです。成長はだれもが願うことであります。クリスチャンとはキリストのような人たちという意味があります。ですからキリストに達することが目標であっていいのです。

しかし、現実はなかなかそこまで至らないことが多いです。目標に向って頑張ろうとするのですが、足を引っ張るものも存在します。それは自分の弱さです。弱さゆえに否定的になり、弱さゆえに罪に負けてしまう。そして目標であるキリストから目をそらしてしまうのです。

それでもやはり、私たちは成長しなければなりません。右肩上がりの線を描けるようにしないといけないのです。「成長させてくださるのは主です」とあります。自分の努力も必要ですが、成長させてくださる主に委ねてしっかりとこの道を歩んでいきたいと思いますね。
  1. 2008/12/11(木) 16:26:41|
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いっしょに集まる

約束された方は真実な方ですから、
私たちは動揺しないで、しっかりと
希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を
促すように注意し合おうでは
ありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まる
ことをやめたりしないで、かえって
励まし合い、かの日が近づいて
いることを見て、ますますそうしよう
ではありませんか。
  ヘブル10:23-25

教会では日曜日に礼拝を持っています。この礼拝は必ず集まるように決められています。もちろん強制はできませんが、クリスチャンはこの日をなによりも大切にして集まるのです。アメリカやヨーロッパでは日曜日に正装して教会の礼拝に出るシーンがテレビや映画で映されます。集うのが自然であり、当たり前のように礼拝には集まります。

日本では日曜日に教会に行って礼拝することは、特別なことに映るでしょうが、本当は週の初めの日に教会に集うことはすばらしい祝福になるのです。神を礼拝することは、まず神を求めることです。そして神にすべてを委ねて歩む意志をあらわすことであります。

かの日が近づいていることを見て、集会を休むことのないようにしよう、とあります。かの日とは、終末の訪れのときです。今の世はだんだんと終末に向って進んでいるように思われます。ですからこそ、しっかりとした思いをもたないといけません。聖書に則って歩むのです。いっしょに集まりましょう。
  1. 2008/12/10(水) 17:22:28|
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深いうめき

御霊も同じようにして、弱い私たちを
助けてくださいます。私たちは、どのように
祈ったらよいかわからないのですが、
御霊ご自身が、言いようもない深いうめきに
よって、私たちのために、とりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが
何かをよく知っておられます。なぜなら、
御霊は、神のみこころに従って、
聖徒のために
とりなしをしてくださるからです。
 ローマ8:26,27

御霊とは神の霊を表しています。神は霊ですから、その働きが目に見えませんが確実に信じる者に働いていることを知ります。私たちが言葉に出して表せない苦しみや嘆きをも、神は理解して、御霊ご自身が深いうめきでとりなしてくださっているのです。

御霊は今も同じように私たちの祈りを聞いてくださっています。とりなすとは、祈りの代理、仲介者的な働きをしてくださるということです。問題が深刻であればあるほど、言葉で表すことは困難です。神は困難な思いも理解してくださいます。そして、祈り、願いに答えてくださるのです。ですから、臆することなく神に祈り求めることが必要です。
  1. 2008/12/09(火) 11:00:07|
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神の平安

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに
感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知って
いただきなさい。そうすれば、
人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いを
キリスト・イエスにあって守ってくれます。
 ピリピ4:6,7
  1. 2008/12/08(月) 16:09:26|
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私たちの確信

何事でも神のみこころにかなう願いを
するなら、神はその願いを聞いてくださる
ということ、これこそ神に対する
私たちの確信です。
  Ⅰヨハネ5:14


 何事でも神はその願いを聞いてくださいます。ただし、神のみこころにかなうならばですが、多くの人は願いごとを持っています。けれどなかなかかなえられないでいます。ある人は星に願いをささげたり、ある人は月や太陽にささげたり、山や、岩などにささげたりしています。

 石で作られた物や、木に彫られたもの、金属で造られた像などに手を合わせて願いごとをしています。本当は聞かれたらもうけもの、聞かれなくてもいいか、ぐらいの軽い気持ちがおおいのではないでしょうか。本気で祈り、願うならば神にじかに祈るべきです。

 みこころにかなう祈りや願いとはなんでしょうか。自分の要求や、欲求を優先させないことではないでしょうか。みこころがなりますように、と主のみこころが一番にもってこれるようにお祈りしたいものです。場合によったら、自分の意とは反することもあるでしょうが、主のみこころ優先でいくなら、きっと万事はうまくいくと思います。
  1. 2008/12/07(日) 15:22:50|
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聖書は

聖書は、すべて神の霊感によるもので、教えと
戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのために
ふさわしい十分に整えられた者となるためです。
  Ⅱテモテ3:16


聖書は分厚い本です。ページ数にして2千ページはあります。しかも上下二段組になっていますので読み応えはあります。1冊通読するには普通のペースで一年に1回でしょうか。人によっては年に3回とか、4回、あるいは6回、すごい人で12回、つまり月に1回は読む人もあります。そうなるとしょっちゅう聖書漬けにならないとむつかしいです。

この聖書は神の霊感によって書かれました。すなわち、神が人々を通して書かされたのであります。それを読むと人を矯正します。訓練を与えます。良い働きができます。罪や不義から守られ、自由な生き方ができるようになります。

家庭に1冊は置いておくべき本であります。バイブル、まさしく人生の指針を与え、しっかりとした歩みを導いてくれる本。ぜひ一度開いて読んでください。
  1. 2008/12/06(土) 14:56:45|
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汚れのない宗教

父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、
孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、
この世から自分をきよく守ることです。
 ヤコブ1:27


神の御前できよく汚れのない宗教は、とあります。一般的にキリスト教は宗教に属しますが、宗教とは一つの思いによって集められた集まりであります。ただなんでも、かんでも信仰していれば宗教というと、やはりひとくくりにはできません。

神から見て、きよく汚れない宗教は、とあるように神の清さの標準に達している必要があります。内容を見ていくと、孤児や、やもめたちを世話することとあります。意外に思いますが、一日中、聖書を読んでいるとか、一日中祈っているのではなく、むしろ世の困っている人たちに手助けすることだというのです。

愛は実践することで愛となります。実際に孤児の人とか、やもめの人たちとか関わりがすぐに持てるわけではありませんが、世には他にも病気の人や老人とか、子どもたちなど困った人はいっぱいいます。ちょっと気をつけてみればその存在がわかります。困った人に手助けできるようにちょっと勇気を出すと神の祝福になります。

また世から自分を清く守ることです。世には目のよく、肉の欲、持ち物の誇りなど罪を誘発するもので満ちています。それらから守られるように、自分を律していきましょう。
  1. 2008/12/05(金) 17:03:11|
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弟子としなさい

あなたがたは行って、あらゆる国の
人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によって
バプテスマを授け、また、わたしが
あなたがたに命じておいたすべての
ことを守るように、彼らを教えなさい。
  マタイ28:19,20


あなたがたはあらゆる国の人を弟子としなさい。弟子とはキリスト者ということです。クリスチャンと同じではありますが、さらに進んだ立場、キリスト者、すなわち弟子とするということであります。師弟関係というと伝統を重んじたり、修業などを連想します。

確かにキリスト教というと単なる教えのように響きます。しかし、イエスは「わたしは道である」と言われています。キリストの教えだけでなく、キリストそのものを極めるキリスト道と言うほうが正確なのかもわかりません。柔道とか、華道、、、もっと言うなら武士道のような域でしょうか。

そうなると伝統、修業はある面、必要といえます。ですから命じておいたことを守る必要が起こります。キリストの道が、およそ2000年以上たっても変わらず、守り行なわれていることを思います。不思議ですが聖書は今なお、読み継がれ、守られているのです。すばらしいですね。
  1. 2008/12/04(木) 18:01:04|
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全世界

全世界に出て行き、すべての造られた者に、
福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを
受ける者は、救われます。しかし、
信じない者は罪に定められます。
  マルコ16:15,16


信じない者は罪に定められます。死後において、いのちか滅びの分かれ目は、主イエスを信じるか、信じないかによることがここでわかります。信じない者は罪に定められるのです。同じように生きていたとしても、信じてから死ぬのと、信じないで死ぬのとでは大きな違いが生じます。

信じてバプテスマを受ける者は救われるとあります。バプテスマとは、自分の罪を認め、それを悔い改めて、主イエスの名によって水に全身を浸すことです。洗礼を意味します。洗礼を受けることは、クリスチャンになったという決意の証です。そのように主イエスを信じるなら罪に定められることはありません。永遠の滅びから免れるのであります。主イエスを信じましょう。いのちを、永遠のいのちを受け取ろうではありませんか。

  1. 2008/12/03(水) 15:27:27|
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愛のうちに

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの
部分がその力量にふさわしく働く力により、また、
備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと
組み合わされ、結び合わされ、成長して、
愛のうちに建てられるのです。
  エペソ4:16


教会は一つ一つが組み合わされて、それぞれの働く能力によってからだとして機能していきます。この教会はキリストのからだです。からだはさまざまに分れて働きをしますが、一つに統一されています。決してばらばらになることはありません。

同じようにキリスト教会も一つとされるのであります。一つとなるには信仰による平和が必要です。性格や考え方、環境の違う人たちの集まりですから、一つになるにはむつかしい面も出てきます。そこでイエスに対する信仰の一致が必要です。

私たちは罪人であることに関しては同じ立場です。お互いが罪を赦された罪人であることを認めているならば、一致することはむつかしくありません。それを越えると不一致な思いが生じてしまいます。同じ体がばらばらになったら、体として健全に機能することはできません。

愛のうちに体を建て上げていく。すべては神の愛に始まり、神の愛によって完成していきます。


  1. 2008/12/02(火) 16:36:20|
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ぶどうの木

わたしはぶどうの木で、あなたがたは
枝です。人がわたしにとどまり、わたしも
その人の中にとどまっているなら、そういう人は
多くの実を結びます。
  ヨハネ15:5

もうぶどうのシーズンは過ぎましたが、ぶどうは実をいっぱいつけるのでいかにもイエスが語られたことの意味が伝わってきます。私たちはぶどうにつながっている枝であり、ぶどうの木は主イエスであるというのです。

ぶどうの実は新しい枝から実をつけます。古くて実をつけない枝は剪定されて落とされて、やがては火に投げ込まれて焼かれます。実を結ぶために選ばれた枝はしっかりと木につながっている限り実を豊かに結ぶようになります。

主につながっているなら、実は結ばれます。離れると実を結ぶどころか、枯れてしまうだけです。だれでも実を結びたいと願うはずです。であれば、しっかりとつながっていましょう。主につながって実を結び感謝にあふれる人生を生きたいものです。

わたしから離れてはあなたがたは何ひとつできない、とも言っておられます。迷って離れてしまわないようにしっかりとつながっていたいですね。
  1. 2008/12/01(月) 16:43:03|
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