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教会はキリストのからだ

教会はキリストのからだであり、いっさいのものを
いっさいのものによって満たす方の満ちておられる
ところです。
   エペソ1:23


教会はキリストのからだです。教会には多くの人が集まっています。その一人一人がキリストのからだの肢体となって機能するのです。ある人は手となり、ある人は口となり、ある人は鼻、耳、足とそれぞれの能力に分けられて、ひとつの体であるキリストの教会を構成しているのであります。

不思議と神はそれぞれの能力を生かせるように教会に賜物を分けておられるように思いますね。教会にはキリストが生きて働いていてくださいます。いっさいを満たす方が満ちておられるとあります。教会にはキリストが満ち溢れておられるのです。

ですから教会でささげられる礼拝は生きた礼拝となります。礼拝では祈り、賛美、聖書の解き明かしなどいろいろありますが、神はどれにも祝福を与えてくださいます。祈りでは自由と解放を与えてくださいます。賛美では神の力があらわされ、聖書からは神のみこころ、生きる指針が示されるのです。一度、生きる神の教会に来て一緒に礼拝に出てみられることをお勧めします。必ずや神の祝福は与えられるはずです。


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  1. 2008/11/30(日) 17:15:44|
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かしらであるキリスト

また、神は、いっさいのものを
キリストの足の下に従わせ、いっさいの
ものの上に立つかしらであるキリストを、
教会にお与えになりました。
  エペソ1:22


 イエス・キリストはいっさいのもののかしらとなってくださっています。キリストは教会のかしらなのです。この教会というのは建物を意味しているのではありません。キリストにあって神の子とされた人、クリスチャンを意味しています。

 クリスチャンとは神に召し出された者たちの集まりであります。教会には神の権威、神の権力が与えられています。ですから教会が一つになって祈り、願うなら神の力を発揮することができます。どんな勢力もこのお方に打ち勝つことはできません。

 最近は不幸な出来事が日本でも、海外でも起きていますが、本当に人と人とが理解し合って、許し合い、受け入れ合うことができるように祈る必要があります。この地に本当の平和が訪れるようにキリストの名によって祈るものです。
  1. 2008/11/29(土) 16:16:29|
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ご自身の愛

キリストが私たちのために死んでくださった
ことにより、神は私たちに対するご自身の
愛を明らかにしておられます。
 ローマ5:8


愛は行動をもって明らかにされます。神が私たちを愛してくださっていることを、上記のように表現されているのです。

キリストが私たちのために死んでくださった。多くの人はキリストが十字架で死んだことは死っています。しかし、なぜ十字架で死んだのかについては知らない人がいます。主イエスは私たちのために死んでくださったのです。

十字架は極刑であります。生きたまま少しずつ苦しんで死んで行く刑罰です。そのあまりにも苦しいために、狂ってしまう人もあるといいます。いっそのこと槍や刀で一思いに殺された方がましだ、とそちらを願う人が多いのです。

なぜそのような苦しみをしなければならなかったのでしょう。私たちは罪を犯しています。罪人は必ず刑罰を受けます。最後に死の苦しみを願う人はいないでしょう。しかし、罪を犯した人は地獄の苦しみを受けるのが定まっているのです。

そのような苦しみに会わないように、会わないですむように、キリストは私たちの身代わりとなって、十字架にかかってくださったのであります。それが神の愛から来ていることは言うまでもありません。この神の愛を、どうぞ、受け取っていただきたいです。主イエスを信じましょう。
  1. 2008/11/28(金) 14:52:06|
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近づきなさい

神に近づきなさい。そうすれば、
神はあなたに近づいてくださいます。
 ヤコブ4:8

日本人の持つ神概念は、恐ろしい神、怒る神といった近づき難い存在にしてしまっています。ですから、神社では大きなしめ縄が張られているのでしょう。神が怒り、暴れてはいけないと大きな縄があると思われます。

聖書の神は決して近づき難いお方ではありません。われわれの信じている神は、愛の神です。恵みといつくしみに富んだ神なのです。ですから決して敬遠する必要はまったくありません。

むしろ神に近づきなさいとあります。私たちの方から神に積極的に近づき、そのふところに飛び込むことを神は望んでおられます。子どもが親のふところに飛び込むような、あんな仕草を想像してみてください。神は私たちが近づくのを求めておられるのです。

そればかりではありません。神はそのような人のところに、ご自身でも近づいてくださいます。近づいてくださる神さま。それは愛の神だからです。こころから神に信頼し、従う人を受け入れて、迎え入れてくださいます。さいわいなことです。さあ、神に近づきましょう。
  1. 2008/11/27(木) 15:46:41|
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告白

もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の
中からよみがえらせてくださったと
信じるなら、あなたが救われるのです。
人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われるのです。
  ローマ10:9-11

人が救われるには、自分の心で信じ、自分の口で罪を告白することです。信じるには信じたという態度が必要です。罪は告白することにより、その罪から解放されていくものです。いつまでも罪に縛られているなら、ずっとその重荷が重石のように乗っかって、その人の人生を苦しめるでしょう。

一刻も早く、罪から救われて解放されるべきです。心に何を信じればいいのでしょうか。それは主イエスが自分の罪のために、十字架にかかり死んでくださったことです。その十字架により流された血潮がわれらを清めてくれるのです。主を心から信じて歩むことが第一歩です。

そしてどんなささいな罪でも主に告白して救いを受けましょう。主はどんな罪をも赦してくださいます。罪を悔い改めるなら、主は赦してくださるのです。感謝します。
  1. 2008/11/26(水) 16:20:25|
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天国は近づいた

悔い改めよ。
天国は近づいた。
  マタイ3:2

主イエスは宣教のために公生涯に入られますと、開口一番に「悔い改めよ。天国は近づいた」と発せられました。天国がイエスの到来によって身近に迫ってきたというのです。ですから、私たちは悔い改めないとならないのであります。

悔い改めとは、罪を犯した者が、その罪を認めて二度とそのような罪は犯しません、と誓い心を入れ替えることであります。悔いとか、反省とかとは意味の深みが違います。言葉だけでなく、行動を伴わないと真の悔い改めとは言えないのです。

悔い改めるとは、道を改めることです。方向転換して正しい道を選び、再出発することであります。罪はギリシャ語ではハマルチャと言うそうです。的外れな生き方といった意味があります。道に迷ってどぶにハマルチャ~というイメージでしょうか。

方向転換して、天国への清い、正しい、真理の道を歩む必要があります。ですから、悔い改めはどんな人も必要なことであります。早く悔い改めた人は、早く主の恵みにあずかることができます。あなたも神の国に入ることができます。
  1. 2008/11/25(火) 16:03:37|
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神の愛から

私はこう確信しています。死も、いのちも、
御使いも、権威ある者も、今あるものも、
後に来るものも、力ある者も、高さも、
深さも、そのほかどんな被造物も、
私たちの主キリスト・イエスにある
神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。
  ローマ8:38,39

神の愛から私たちを引き離すことはできません。それほどに神の愛は強いものなのです。母と子の絆が強いといわれますが、神の愛はそれよりももっと強く、そして分け隔てなくすべての人に愛は注がれているのです。

ある人はそれを体や心に感じて、神に感謝するのですが、ある人は、神の愛がわからない。だから神に感謝しない、と言います。太陽の光が分け隔てなく万人に注がれるように、神は一人一人を愛してくださっています。その愛を十分に、豊かに受けてほしいですね。

  1. 2008/11/24(月) 17:49:00|
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聞き分け

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。
またわたしは彼らを知っています。
そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを
与えます。
彼らは決してほろびることなく、
また、だれもわたしの手から
彼らを奪い去るようなことはありません。
  ヨハネ10:27,28
  1. 2008/11/23(日) 17:00:33|
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神との平和

ですから、信仰によって義と認められた
私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、
神との平和を持っています。
  ローマ5:1

なんとさいわいなことでしょうか。私たちは神との平和が与えられているのです。日本は平和な国と言われて来ていましたが、最近はそれを言う人も少なくなりました。毎日のように殺人事件があり、不正が堂々と行なわれるのを聞くと日本のどこが平和なのだろうかと考えてしまいます。

平和は作り出すものでしょう。戦争によって平和は生まれてきません。平和は愛と犠牲によって与えられるものです。神の平和は、イエス・キリストの愛と犠牲によって、私たちに与えられたものです。イエスがご自身を犠牲にして、それを恵みとして私たちに平和を与えてくださったのであります。

どんなに荒れた人でも、主は平和を与えてくださいます。どんなに罪深い人にも平和を与えてくださいます。地の上において、みこころにかなう人々に平和があるように。天使たちに歌われた歌。それは世界で初めてのクリスマスの夜に歌われました。あなたの家にも平和が来ますように。
  1. 2008/11/22(土) 20:28:11|
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特権

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、
その名を信じた人々には、神の子どもとされる
特権をお与えになった。
  ヨハネ1:12

主イエスを信じた人々には神の子どもとなる特権が与えられました。特権は特別だからこそ価値があります。私たちはいろんな所に行って特権のありがたさを知ることがあります。外国に行ったら日本人ということで感謝されることもあります。もちろんその逆もありますが。

特権はありがたいものです。神が私たちにくださる特権は神の子どもという特権です。神の子どもですから、神の恵みを一方的にいただくことができます。神の子どもですから、いつも神の守りの御手の中にいることができます。

敵が襲ってきても神は私たちを保護してくださいます。何よりも永遠のいのちを与えて、いつまでも神とともに生きることができるようにしてくださいました。感謝します。まだまだこの特権はいくつも恵みとしてあるでしょう。私たちの知らない大きな恵みです。
  1. 2008/11/21(金) 17:08:20|
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死から命に

まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を
信じる者は、永遠のいのちを持ち、
さばきに会うことがなく、
死からいのちに移っているのです。
  ヨハネ5:24

わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ちます。「わたし」とは主イエス様です。わたしを遣わした方とは、もちろん父なる神です。そのように神を信じる者は永遠のいのちをもつことができます。

それだけではありません。さばきに会うことがないのです。さばきとは罪状に対して告げられる刑の重さであり、その刑罰の執行です。私たちが罪がないから、さばきに会わないのではありません。罪はあるのですが、罪を取り去ってくださったので、罪のない者としてくださったのです。ですからさばきに会うことがないのです。

死からいのちに移される。死は永遠の滅びを意味しています。永遠の滅びに行くはずだったのを、このお方を信じたゆえに、滅びからいのちへと移されて、永遠のいのちが与えられたのであります。それはわれわれの行いによるのではありません。神様がくださる一方的な恵みによるのであります。死からいのちへと移されることは、永遠を決する一大事です。このお方を受け入れましょう。
  1. 2008/11/20(木) 15:06:48|
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神の国を見る

だれでも新しく生まれなければ、
神の国を見ることはできない。
  ヨハネ3:3

神の国を見るには、新しく生まれなければなりません。といってももう一度生まれることは実際はできません。母の胎内に入ることは不可能です。

イエスがここで生まれるということについて語られたのは、心が新たにされること、そして霊が新たないのちに満たされることを意味して語られています。心が新たになる。霊が新たにされる。新生の体験をすることはできます。

クリスチャンとは、新生した人です。キリストを信じて、生まれ変わった体験をした人であります。生まれ変わって変えられた、と確信して主イエスに従っている人たちです。そのように新生した人は神の国を見ることができます。

神の国は、生まれ変わった人に見れる世界です。あなたの心の中に神の国はあります。新しく生まれた人は、それがわかるし、見ることができるのです。新生できるように求めましょう。
  1. 2008/11/19(水) 16:14:22|
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価なしに

すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる
あがないのゆえに、価なしに
義と認められるのです。
  ローマ3:23,24

罪を犯した人は神からの栄誉を受けることができません。受ける資格がないのです。罪は神と私たちを離してしまいます。ですから何をもってしても、神との距離を縮めることはできないのです。

私たちの側からいくら努力して働きかけても、それによって義とされることはできませんが、神の側から義とする道を与えてくださいました。それは、キリスト・イエスによるあがないの業によるのであります。あがないとは、買い戻すことです。一度罪に売られてしまっていたものを、代価を払って買い戻すことがあがないです。

その買い戻すのに必要な価は、金銀ではありませんでした。もっと価値のあるキリストの血、すなわちキリストの命を払うことだったのです。イエス・キリストの血によって、私たちは神に義(ただしい)と認められるようになりました。

それは神からの一方的な恵みであります。恵みですからただ、神から与えられたことを感謝して受けるしかありません。このすばらしい神の救いを、どうぞ、あなたも手に入れてください。
  1. 2008/11/18(火) 17:32:39|
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罪に定める

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。
 ローマ8:1

罪に定められることはありません。私たちは知らず知らずのうちにも罪を犯していることがあります。知って犯すことはもちろん罪ですが、知らないで犯すことも罪にかわりはありません。すべての人は罪を犯している、と聖書は断言しております。

ここではキリスト・イエスにある者は罪に定められことはありません、とあります。すべては罪人なのに、キリストにある者、すなわちクリスチャンは罪に定められないというのです。同じように生きているのになぜ定められないのでしょうか。殊更に、キリストにある人は高潔で、俗世から離れた生活をしているからでしょうか。そうではありません。いくら離れていたとしても、心の中では良くない思いになったり、憎しみや妬みの思いは持ってしまいます。

ただ、キリストにある者は、自分が罪人であることを認めています。その罪をイエスが十字架にかかり、許してくださったことを知っているのです。恵みにより、信仰によって人は救われることを実体験として知っているから、もう罪に定められることはないのです。過去の罪、現在の罪、これから犯すかもしれない罪すべてを主は背負って死んでくださいました。

そのことを感謝します。決して罪に定められることはない。なんと幸いではありませんか。罪に定められないということは、罪の刑罰である永遠の滅びもない。そこから救い出されているということです。ハレルヤ!感謝します。
  1. 2008/11/17(月) 15:37:17|
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日々新たに

ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は
日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、
測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

          Ⅱコリント4:16,17

勇気を失いません。そういつでも言えるならば強い人と認められます。実際は勇気を失ってばかりで、先々の不安が大きく見えては、失意と失望に前に歩が進まない状況になります。しかし、ここでは勇気を失いません、とあります。なぜでしょうか。

外なる人は衰えるとあります。だったら失望してしまいます。確かに年齢とともに外なる人の衰えるのは目に見えるようです。あすこが、ここがと弱ってしまうのであります。そんな嘆きを言うのでなく、ここでは、内なる人は日々新たにされるというのです。内なる人とは心というか、霊、たましいのことです。霊は衰えることはないのです。むしろ年齢とともに新たにされていきます。

新たにされると元気が与えられ、力に満たされ、やる気満々と自信に満ちることができます。ですから勇気を失うことはなくなるのです。その霊を新たにして下さるのは主イエスです。主は「わたしが来たのは羊に命を得させ、ゆたかに得させるためだ」と語られました。羊とは私たちのことです。私たちがいのちを豊かに得られるように主は来てくださいました。

その命によって、どのような患難をも撃破していくことができます。勇気をもって前進しましょう。
  1. 2008/11/16(日) 16:08:02|
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新しく生まれ変わる

だれでも新しく生まれなければ、
神の国を見ることができない。
  ヨハネ3:3

神の国に入るには新しく生まれ変わることが必要です。神の国とはどこにあるのでしょうか。主イエスは「神の国は、こことか、そことかにあるのではなく、実にあなたがたのただ中にある」と語られました。世界地図を広げて見ても神の国と記されている場所は存在しないのです。

しかし、神の国は国境をも超えて存在します。私たちのただ中とは、心の中と考えてもいいでしょう。心に感じて神をたたえ、神に祈るのです。そして心を尽くして神を求めるとき、確かにそこに神の国が存在することがわかります。

神は愛なるお方です。神の愛がひとりひとりに注がれるとき、神はそこにおられるのです。新しく生まれることは、もう一度母の胎内に入って生まれ出ることではありません。それは実際に無理なことです。新しく生まれるとは、自分の心に素直になって、神の御前に罪を悔い改めて、神を信じます、と告白して生きることであります。

キリストにあって新しい人生のスタートを切るのです。そうすれば、神は私たちの歩みを豊かに祝福してくださいます。生まれ変わらなければ、神の国に入ることはできません。
  1. 2008/11/15(土) 17:11:47|
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ここに愛あり

わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛し、
わたしたちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を
遣わされました。ここに愛が
あるのです。
   Ⅰヨハネ4:10


ここに愛があるのです。どこに?と捜している人がいるかもしれませんね。よく調べると、愛は遠くにあるのではなく最も近いところにあるものです。子どもが親に叱られたりすると、「自分は親に愛されていない。親は叱ってばかりいる」と親の愛を知ろうとしません。だんだんと大きくなればわかってくるものですが、愛は一番近くにあるものなのです。

いざとなったら、一番に駆けつけてくるのが親であります。それは一番愛しているからです。愛はこことか、そことかすぐに見せられないものですが、いざとなったときには、理屈ぬきでだれにでもわかってくるものであります。例えば、わが子が病気になったとか、けがをしたとかなると一番に親は心配するものなのです。

神は私たちを愛しておられます。わたしたちが罪のために、永遠の滅びにいたることを見過ごすことができなかったのです。これは一大事だったからです。ですから何とかして滅びから救い出そうとして、身代わりに御子イエスを十字架にかけて、罪の刑罰を受けさせられたわけです。イエスはわたしたちの身代わりになって死んでくださいました。そのことを知って、こころから感謝したいと思います。どうか、あなたもこの神の愛をしっかりと受けとめていただきたいですね。
  1. 2008/11/14(金) 16:16:03|
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自分でわからない

父よ。彼らをお赦しください。
彼らは何をしているのか自分で
わからないのです。
  ルカ23:34

十字架の上で祈られた主イエスの言葉です。彼らをお赦しください、と持てる力を振り絞りお祈りされました。自分を十字架につかた人たちに対して赦しを求められたのです。なんという大きな愛でしょうか。目の前にいる彼らは、イエスを嘲笑し、唾をかけたり、ふざけたりして救い主を受け入れませんでした。

あなたは自分を認めようとしない人に対して寛容であれますか。しかもいのちをも奪おうとする人に対して赦す気持ちを持てるでしょうか。相当な愛がなければ無理でしょう。イエスはどんなに自分を裏切ろうとも、その人を愛していかれました。そして改心することを願われたのです。

彼らは何をしているのか、自分でもわからないのです。これは第三者のことというより、この私について言われていることです。自分自身でもそれが罪深いこととは知らず、平気で人を傷つけていることがあります。裏切ったり、中傷したり、さげすんだりと、本来はそんな人間ではなかったはずなのに、罪を犯してしまう。

自分でも何をしているのかわからないことは多々あると思います。主は十字架の上で、赦しを祈られました。その祈りは今も聞かれています。私は赦しがたい罪人なのに、主イエスの祈りによって摘む赦されました。心から感謝あるのみです。
  1. 2008/11/13(木) 16:04:06|
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幸い

心の貧しい者は幸いです。天の御国は
その人のものだからです。
 マタイ5:3

幸いな者は心の貧しい人です。イエスの幸いについての表現は世の人と違っている場合があります。一般的には幸いとは、裕福であること、健康、何でも手に入れられる環境などを考えます。一度でいいからそんな身分になって見たいと人は願うのでしょうが、なかなか現実はうまくはいきません。

主イエスは心が貧しい人こそ幸いであると言われたのですが、どういうことでしょうか。心が貧しいとは、真理に飢え渇いている人のことです。世の冨や宝では満足できないのです。もっと真実なものが欲しいと絶えず願っている人です。

神が満たしてくださらない限り、決して埋められない心の空洞があるのです。ですから心貧しく求めていくのです。神の恵みによって初めて心が満たされて参ります。それまではいつも求め続けていくのです。求めよ。そうすれば与えられます。捜せ。そうすれば見出します。
  1. 2008/11/12(水) 16:58:04|
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いない

義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める
人はいない。すべての人が迷い出て、
みな、ともに無益な者となった。
善を行なう人はいない。ひとりもいない。
 ローマ3:10


義人はいません。ひとりもいません。そう言われると、そんなバカな。世の中には悪い人も確かにいるけれど、いい人もいる。だから義人がひとりもいないなんてあり得ない、と反論される人もあろうかと思います。

聖書の義人は、その人が自分で認める自己義認の義人ではありません。また他者による義人でもありません。これは神が義と認めてくださる人を指しています。神の目から見て義とされている人はいないのです。ひとりもいないのであります。

それだけ神の標準は高いと言えます。妥協を許されません。十戒があります。盗むな。殺すな。嘘をつくな。姦淫するな。貪るな。これらの90パーセントを守れていても、一つを守れなかったら、守れないことになります。完璧に守れる人はいないのです。

守れないから諦めていいのではありません。行いにおいてわれらは完璧に神の標準をクリアすることはむつかしいことです。だから、神は私たちに新しい道を示されたのです。恵みによって救われるという道です。神の救いの確かさに感謝しようではありませんか。
  1. 2008/11/11(火) 18:06:33|
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顔に汗

土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生、苦しんで食を得なければ
ならない。土地は、あなたのために、
いばらとあざみを生じさせ、あなたは、
野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、
ついに、あなたは土に帰る。
  創世記3:17-19

これは罪を犯したアダムに対して、神が語られた言葉です。罪のために土地が呪われてしまいました。今まで園の中から取って食べられたのに、それもできなくなって、アダムとエバはエデンの園を追い出されてしまったのです。

そして土地はあざみやいばらを生じさせ、彼らにとっていのちの実を与えなくなったのです。そこで人は自分で土地を耕し、額に汗して労働していのちの糧を得なければならなくなりました。それは今日も続いています。

基本的には働かなければ生きるための糧は得られません。労働の苦しさを体験して生きようにされたのです。労働は楽しみや喜びもありますが、やはり顔に汗する苦しみもあります。苦しみながら生きていかなければならなくなったわけです。

そればかりではありません。最後は土に帰るように語っておられます。土に帰る。すなわち死ぬことをはっきりと示されたのです。もし罪が無ければ死もなかったでしょう。しかしすべての人に死は訪れてきます。そして土に帰っていくのです。
  1. 2008/11/10(月) 17:23:56|
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苦しんで

わたしは、あなたのみごもりの苦しみを
大いに増す。あなたは苦しんで子を産まなければ
ならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、
彼は、あなたを支配することになる。
   創世記3:16

女性はみごもりの苦しみを大いに増すと神は言われました。苦しんで子を産むのは最初の女性であるエバからあったことです。出産は今日でも命がけといえます。よく妊婦が出産のときに脳出血を起こして子どもは産んだが、妊婦は亡くなるといった悲劇が起きています。受け入れ病院がなくてたらい回しにされるという事件さえ起きています。

苦しんで子を産まなければならない。それはなぜかと言えば、アダムが罪を犯した結果です。食べてはならないと言われていた善悪をしる木の実を食べてしまったからであります。エバはアダムより先にこの実を食べてしまい、それをアダムにも渡して食べるように勧めたのでありました。

したがって女性には妊娠の苦しみがついてまわるのです。さらには夫を恋い慕うが夫は逆に妻を支配するようになります。恋い慕うとは恋愛関係を思わせますが、本当は夫を独り占めして支配することです。究極の独占的愛欲です。しかし夫はそんな妻を支配する結果になります。罪の結果、お互いが独占しようとお互いを主張して喧嘩が絶えない夫婦になってしまうのです。すべては罪の結果です。そうならないように、もう一度原点に帰り、神の愛と赦しをもって愛し合う必要があります。
  1. 2008/11/09(日) 16:54:45|
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死後のさばき

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを
受けることが定まっている。
   ヘブル9:27

人間に定まっていること、それは死ぬことです。この世に生まれてきた以上はいつしか死を迎えるのです。だれでも死は望まないと思いますが、いつそれがやってくるのか、それはだれにもわかりません。死がどういったものか、ただ肉体のいのちが途絶えることと思う人もいるでしょう。

死は最後ですが、最後ではありません。死後のさばきもあることを聖書は伝えています。死の恐れよりも、死後のさばきに対する恐れの方が大きいと言わなければなりません。生前にやって来た数々の悪事にどうさばかれるか不安でならないのです。

死後のさばきも必定、必ずやって来ます。そうなると死にたくはない。さばきも受けたくない、と思うでしょう。主イエスは私たちが死んで、さばきを受けないですむように、ご自分でみんなの罪を背負って十字架にかかり死んでくださいました。ただこのイエスの十字架の死を受け入れて信じていくだけで、人は罪赦され永遠のいのちを得られるようにしてくださいました。

死もさばきも恐れる必要はなくなったのです。どうかこのイエスの福音を真剣に受け止めて、受け入れてください。神の祝福が与えられると信じます。
  1. 2008/11/08(土) 16:25:56|
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救えない理由

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、あなたがたと、
あなたがたの神との仕切りとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、
聞いてくださらないようにしたのだ。
 イザヤ59:1,2

神と私たちを離しているのは、私たちの罪であり、咎であるとあります。神に近づきたくても近づけないのは罪があるからです。罪をもったたましいは死ぬべきであると聖書は語っています。神との仕切りを取り除く必要があります。

そのためには、まず自分の罪を認めないといけません。どんなに神に近づこうとしても、神は罪を認めないならばご自身を明らかにされません。自分が根っからの罪人であり、どうしても救われることはできないと認めたときから、神との仕切り板が外されます。

罪を認めることはかっこ悪いことと考えている人がいます。本当は頑なに自分の罪を認めない人こそかっこ悪いのです。この罪は刑法にひっかかる罪とは違います。どんな人でも持っている生まれながらの原罪を意味しています。

罪を認めて、悔い改めるなら一瞬のうちにでも神は赦し、救いの中に入れてくださいます。いつまでも罪や咎をかかえたままでいると神に出会う機会を失ってしまいます。「主を求めよ。お会いできる間に。」と聖書は勧めています。今こそ、そのとき、決断のときです。
  1. 2008/11/07(金) 16:50:50|
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報酬

罪から来る報酬は死です。  ローマ6:23

働いたら報酬がもらえます。最近は満足に報酬をくれないところもあるようですが、報酬は働きの結果ですからいただくのは当然です。ここで書かれている報酬は本当はほしくないものであります。

罪から来る報酬は死です。罪を犯して、それを積み上げるならその報いとして死がある、という法則です。どんな人でも一度ならず、何度でも自分の罪に悩んだことがあることでしょう。正直な気持ちで考えると、なんと自分は罪深い人間なんだろうか、とそのことで悩んだこともあります。

罪は人を傷つけます。盗み、殺人など刑法上の罪はないかも知れませんが、それも元になるウソ、偽り、妬み、憎しみ、殺意、おごりや高ぶりなど言い出したらキリが無いほどに該当するものが出てきます。罪を犯すものは罪の奴隷です。一つでもあれば、もう立派な罪人といわなければなりません。

罪から来る報酬は死であります。死は罪の結果であるのです。ですから死に対して人は恐怖を抱きます。死の恐怖は自分の存在が消えてしまうというものもありますが、死んでから神に裁かれるのではといった本能的な恐怖心があるから、それに捕らわれてしまうと思います。

罪から救われる必要があります。私たちの罪の身代わりになって死んでくださった主イエスを信じて罪を悔い改めるなら救われます。恐怖心から解放されるのです。一度じっくりとこの救いについて考えてみたらいいでしょう。聖書を読んでいただきたいです。
  1. 2008/11/06(木) 15:50:03|
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罪ある者

ああ、私は咎めのある者として生まれ、
罪ある者として母はみごもりました。

                  詩篇51:5


これはイスラエルの王ダビデが神の前で悔い改めて告白した言葉です。彼は王でしたが、彼の部下の妻に手を出して妊娠させてしまうという過ちを犯しました。そしてそのことがばれないように、遠征に出ている部下を呼び戻して、部下に「家でゆっくりして休みなさい」と休暇を与えるのですが、部下は部隊が前線で戦っているのに自分ひとりだけそんな勝手なことはできないと、家には帰らなかったのです。

思惑が外れたダビデは、もう一度部下を前線に戻して、今度はそこで最前線に出して死ぬように仕向けるのです。姦淫と殺人というとんでもない大罪を犯してしまいます。王であればなにをしてもいいはずはありません。人は何も口出しできないことでも、神は看過されませんでした。即刻、預言者を遣わしてダビデの罪を指摘されたのです。

そのときダビデは神の前に罪を認め、率直に悔い改め祈りました。罪は赦されないことです。しかし、神はどんな罪でもそれを認め、悔い改めるならお赦しくださいます。私たちは罪の中に生まれて来ていることを知ります。どんな人も原罪というものを持って生まれ生きているのです。その罪を認め、率直に神の前で悔い改め祈る必要があります。ダビデは赦されてもう一度やり直すことができました。だれでもキリストにあるなら新しく造られた者となります。
  1. 2008/11/05(水) 16:52:44|
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いのちの息

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで、人は、生きものになった。
 創世記2:7

人は神によって形造られました。しかも土から造られたのです。ですから、やがては土に帰ると主は語られました。確かに死んだら土に戻ります。人は他の生きものよりも優れたものとして造られました。

それは、神によっていのちの息を吹き入れられて、人は生きるようになったからです。ただ単に心臓が動き始めたというだけでなく、たましいが入れられ、生き物とされたのです。人は霊的な生きものです。霊が生かされて初めて生きるものとされるのです。

教会が誕生するときの出来事が新約聖書に出てきます。ペテロたち12弟子は、師であるイエスを天に送り不安な中におりました。主は天に帰られる時に弟子たちに向かい「上から力を与えられるまで待ち望んでいなさい」と祈って待つように語られたのです。それから彼らは一心に祈り始めました。祈リ始めて10日目のこと、彼らは上から神の霊に満たされて今までに無い力を受けたのです。

教会はそのようにして産声をあげました。いのちの息を神から吹き入れられたのであります。私たちも聖霊に満たされて生まれ変わることができます。ほんとうに生きるものとなった、と言えるように求めて参りましょう。
  1. 2008/11/04(火) 15:33:26|
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神のかたちに

神はこのように、人をご自身のかたちに
創造された。神のかたちに彼を創造し、
男と女とに彼らを創造された。
 創世記1:27

神は人をご自身のかたちに創造されました。人間を見ると神をイメージすることができるというのです。もちろん神は無限のお方ですから、人と同じではありません。私たちは無限ではないことを知っています。神とはと問われたときに、よく人間を観察してみなさい。きっと神のイメージがわかるよ、と答えられるのです。

ところが人間は神のいいつけにそむき、罪を犯してしまいました。神のようにいつまでも生きることができたかもしれなかったのに、最初の人アダムが罪を犯した結果、人に死が訪れるようになりました。永遠とはかけ離れた生き方をするようになったのです。

それでも人は神のような心をもっています。人を愛するこころ。人をいたわるこころ。やさしさや許すこころ。助け合うこころなどです。反面、人は悪魔のような心も持っています。人を憎むこころ。ねたみ、そして殺そうとするこころなどなどです。

神のようにはなれませんでしたが、神のような心を持っている人間です。もう一度、神のような生き方を神は求めておられます。それにはまず、神の赦しが必要です。イエス・キリストによって赦しの道が開かれました。このお方を信じて救われ、新たな生き方をするようになって、人はアダム以来の神のかたちを回復することができるようになります。

イエスを信じる者が新しく造り変えられて生まれ変わることができるからです。どうか、このすばらしい救いを受けていただきたいと思います。 GOD BLESS YOU !
  1. 2008/11/03(月) 15:18:28|
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あなたのおきて

苦しみに会ったことは、私にとって
しあわせでした。私は、それであなたの
おきてを学びました。あなたの御口の
おしえは、私にとって幾千の
金銀にまさるものです。
 詩篇119:71

だれがこのようなことを言えるでしょうか。苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした、と。多くの人はなるたけなら苦しみなんかほしくないと思うでしょう。苦より楽を誰しもが臨むでしょうし、できることなら一生苦しみは来ないでくれ、と言いたいものです。自分はそう思ってしまいます。

しかし、ここではしあわせでした、とはっきりと告白しています。なぜでしょうか。苦しみによって得られた財産があったからです。苦しみを通ったからこそわかることは数限りなくあるものです。これによってあなたのおきてを学びました。学ぶことは学校だけではありません。生活の中で体験して学ぶこと、むしろその学びこそとても貴重であります。

神のおきてを学ぶことができました。神の愛の深さを学ぶことができたときに、そのことがどんだけ金銀を積み重ねても得られない体験になったというのであります。主の愛がなければいっさいがむなしくなります。今日あるのも神の大きな愛ゆえであると感謝します。
  1. 2008/11/02(日) 16:46:20|
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愛です

神は愛です。  Ⅰヨハネ4:16


2千ページもある分厚い聖書を一言で表すなら、「神は愛です」となります。聖書は愛について書いているのです。神がいかに私たちを愛しているかを綴っているのですが、量が多いのでなかなか読みきるのが容易でありません。しかし、神は愛です、というテーマにそって一つずつ読んでいけばだんだんとわかるようになるものです。

神が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合いましょう。このようにヨハネは勧めています。愛の前提が神が私たちを愛してくださっていることであります。したがって、愛されたことのない人(そんな人はいないと思いますが)、愛されたことの少ない人は、愛することがわからなかったり、愛することがうまくできなかったりします。愛さないものは神を知らない、ともヨハネは言いました。

他の人に愛されたことが少ないと思っている人も、本当は神に愛されているのです。それがわからないだけであります。神は愛ですから、どんな人をも愛してくださっています。どうぞ、神が私たちを、この私を愛してくださっていることを知ってください。神の愛に満たされていただきたいです。
  1. 2008/11/01(土) 18:03:53|
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