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聖なる神

われらの神、
主は聖である。
  詩篇99:9


神は聖なるお方です。ですから神に近づく時には聖なる思いをもって臨む必要があります。モーセが神と話すとき、神は「私は聖なるものである。あなたは足から靴をぬぎなさい」と言われました。靴を脱ぐことが必ず聖につながるわけではないでしょうが、神に向くときにはいつものようなスタイルではいけないのです。

礼拝が教会で捧げられます。礼拝中にもかかわらず、気持ちは別の方にいっているなら、きっと神は同じように「あなたの足から靴をぬぎなさい」と言われることでしょう。靴を脱ぐとは、こころを変えることです。世の中に生きていますが、神は聖なるお方です。世の中の価値や、判断で神に近づいたら本当に神に近づくことはできません。

聖という字は、王の口に耳を傾ける行為です。王とは神のことです。神の口とは、神の言葉です。神の言葉に耳を傾ける時、私たちは聖なるお方を知ることができます。自分も聖なるものとされるのであります。神に近づきましょう。そうすれば、神も私たちに近づいてくださいます。
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  1. 2008/10/31(金) 14:58:44|
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神の武具

悪魔の策略に対して立ち向かう
ことができるために、神のすべての
武具を身に着けなさい。
  エペソ6:11

悪魔の策略というものがあります。悪魔は人間よりも狡猾であり、力がありますからよほどのものがないと打ち勝つことはできません。最初の人であるアダムとエバもまんまと悪魔にだまされて罪に落ちてしまったのです。

打ち勝つには神の武具が必要です。一つは祈りです。私たちは祈りによって神の御手が動くのを知っています。病人がいやされたり、むつかしい局面が打開されたりと、そこにしるしや不思議が起きることを信じて神に祈るのです。悪霊に対してもこれに向って、「サタンよ。退け!」とイエスの名によって祈り追い出します。

もう一つはみ言葉を剣のようにして握り締めることです。聖書の言葉の中でも、そのときにもっともふさわしいみ言葉を神に示していただいて、それを信じて告白するのです。きっとそのとき悪魔の策略に勝利することでしょう。

さらには教会の仲間、信仰の仲間とともに一つとなって神を礼拝し、祈りと賛美、感謝をささげることです。一致のあるところに神の偉大な力が働いてきます。何も恐れることはありません。信仰もっていきましょう。
  1. 2008/10/30(木) 14:48:38|
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あなたがたの敵

身を慎み、目をさましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、
ほえたけるししのように、食い尽くす
べきものを捜し求めながら、
歩き回っています。
  Ⅰペテロ5:8

あなたがたの敵は悪魔、サタンです。ですからサタンに対して、いつも目をさまして敵にやられないようにしなければなりません。そして、身を慎んでいなければなりません。サタンは巧妙に私たちを神から離そうとして、誘惑します。私たちがすきを見せると、そこから入り込んでいつの間にかやられてしまうことがあるのです。

ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めています。ライオンは飢えているときは危険です。食い尽くすべきものを捜し求め、そのことに集中してきます。油断もすきも見せてはならないのです。

サタンの食い尽くすべきものとは、私たちの信仰です。神に対する熱い信仰心を無くさせようと躍起となって仕掛けてきます。ライオンがまわりをうろついているのを気がつきませんか。このライオンに襲われないように、しっかりと身をつつしみ、目をさましていましょう。
  1. 2008/10/29(水) 15:35:55|
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天から落ちた

暁の子、明けの明星よ。
どうしてあなたは天から落ちたのか。
国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは
地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に
落とされる。
 イザヤ14:12-15

サタンは昔は天使でありました。ところがいと高き方のようになろう、と言って高ぶったために、神に追放されたのです。そして人間界に落ちてきて、悪に誘惑する悪魔となってしまいました。アダムとエバがエデンの園において快適な生活をしていたのですが、巧妙で狡猾なサタンはヘビになって、薗の中央にある善悪を知る木の実を二人に食べるように唆しました。

ふたりはまんまと誘惑に乗ってしまい、神から禁じられていた木の実に手を出して、それを食べてしまったのです。その結果、人類に罪が入り、罪の結果人は死ぬものとされましうた。原罪です。

サタンは人をだまし、いかにしても神から人を離そうと働きかけてきます。自分が最後に恐ろしい地獄の裁きが待っていることを知っていますから、ひとりでも多く道連れにしようと躍起となっているのです。サタンに従ってはなりません。しっかりと主イエスを見上げて従いましょう。
  1. 2008/10/28(火) 17:03:06|
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主の使い

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、
彼らを助け出される。
  詩篇34:7


 主の使い、御使いは空想の生き物ではありません。天使とも言いますが、聖書では天使の名前も書かれおります。戦う天使ミカエルとか、告知をするガブリエルとかです。クリスマスには天使ガブリエルがマリヤに告知して、「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたとともにおられます。あなたは男の子を産みます。」という聖誕劇が教会で行なわれます。

 天使は目に見えないです。けれども天使には役目があって、一番の役目は主に仕えることです。そして、主を恐れる者たちを守り、危険な時には助け出す役目があります。ある人が危ない!と思った瞬間に奇跡的に助けられた、といった話を聞いたことがあります。だれが助けてくれたかわからない。天使が守ってくれたとしか思えない、と語っておられました。

 御使いが回りに陣を張って助け出さえる。これは体験したからこそ、このように書けたのだと思います。これからもきっと天使たちが、主を恐れる者たちを守って、助けてくれることを多くが体験することでしょう。
  1. 2008/10/27(月) 10:19:56|
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わざわいも

あなたは愚かな女が言うようなことを
  言っている。
私たちは幸いを神から受けるのだから、
わざわいも受けなければならない
  のではないか。
   ヨブ2:10

 ヨブの妻は、ヨブが一日にして全財産を失い、しかも自身が全身を重い皮膚病に侵されて、とてもみじめな状態に陥ったのを目にして思わず「いつまで誠実をつくそうとしているのですか。いっそのこと神をのろって死になさい。」と口走ってしまいました。人の不幸を見て、同情するよりももっと辛らつな言葉をかける、これが自分の伴侶から出たのであれだ、これほどつらいことはないでしょう。

 ヨブはその言葉に対して、愚かな女が言うような言葉だ、と言いました。ヨブの妻は性悪な女性ではなかったのでしょうが、あまりにも急な事態、しかもあまりにも想像を越えて酷い状態に理性を失っていたと思われます。それでも、ヨブの信仰はその言葉によって揺るがされませんでした。

 私たちは神から幸いを受けています。その通りです。ですからすべてに感謝できます。だから、わざわいも受けなければならない。これはその通りと素直には言えないものがあります。できるなら、災いは素通りしてくれますように。良いことだけが来ますように。そんな勝手な願いを持ってしまっているからです。災いは否応無くやってきます。そこでそれにどう向き合っていけるかは個人によって異なるでしょう。ヨブは災いをも受けるべきではないか、と言って受け入れたのであります。

 それから後の出来事として、ヨブには失った財産の2倍が与え返され、もう一度、10人の子供たちが新たに与えられました。災いを受け入れた結果、彼の信仰は一段と強められたのです。
  1. 2008/10/26(日) 19:45:48|
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大いに

私を大いに祝福し、私の地境を
 広げてくださいますように。
御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて
私が苦しむことのないように
 してくださいますように。
  歴代Ⅰ 4:10

これはヤベツの祈りとして、キリスト教会では有名であります。歴代Ⅰは系図が多く、その大半がカタカナの名前の羅列です。したがって読むのに疲れる箇所であります。人の名前はひとりひとり意味があり、それぞれに人生があるわけですから、そう考えるとむげに読み飛ばすのもいけないかと思って、人名を根気よく読んでいます。

ヤベツは不遇な生い立ちだったようです。彼は母親から信仰をしっかりと教え込まれたのでしょう。その祈りの大胆さから、彼の信仰の大きさを理解できます。私を大いに祝福してください。地境を広げてください。これくらい大胆に神に迫って祈れる人は大成するでしょうね。

御手が私をわざわいから守ってください。この祈りを考えると、イエス様が弟子たちに、このように祈りなさいと手本を示された、主の祈りを思い出します。わざわいから守ってください。必要な糧を今日もお与えください。

私たちはいろんな必要があります。願いもありますが、それをどれくらい本気で神のみ前に出て祈り求めているでしょうか。案外、願いで終わってしまっているように思います。私を大いに祝福してください。私の地境を広げてください。このように主に祈れる人は幸いな人です。
  1. 2008/10/25(土) 20:33:56|
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帰ろう

私は裸で母の胎から出て来た。また、
裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は
取られる。主の御名はほむべきかな。
  ヨブ1:21


自分の持っているものがすべて失われたらどうでしょう。家、子どもたち、財産などが失われた呆然となるでしょうね。ヨブは自分の財産を一日のうちにすべて失いました。そればかりか10人いた子供たちもすべて失ってしまいました。

さらには自分自身も得体の知れない病気にかかり、全身がかゆみと痛みで覆いました。狂いたくなる心境です。おまけに彼の妻は「神をのろって死になさい」という始末です。本当に苦しみの絶頂にあったのですが、それでも彼は神を呪うようなことはしませんでした。

主が与えて、主が取られるのだ。主の御名はほむべきかな、と言って神を賛美したのです。なかなか出来ないことだと思われます。実際に、もし自分が同じ状況におかれたら、とてもそんなことは言えないでしょうし、そんな態度はとれないかも知れません。

でも、ヨブの告白しているように、すべては主が与えてくださり、そして主がお取りになるのです。自分が手に入れたのだ、と思っても、それは神が与えられたというべきです。私たちの生活において必要なものは主が与えておられます。そのことを覚えて、主にもっと感謝し、主をたたえるべきであります。
  1. 2008/10/24(金) 15:24:52|
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できないことはない

それは人にはできないことです。
しかし、神はどんなことでもできます。
  マタイ19:26


人間のすることは計り知れないものがあります。こんなこともできるのか、と驚嘆してしまいます。科学の力、その能力はすさまじいものがありますが、それでも人にはできないことがあるのも事実です。人に出来ないことのほうが多いというべきでしょうか。

しかし、神にはできないことはありません。神はどんなことでもできます。全知全能のお方です。聖書を読むと神の偉大さを知ることができます。神は天地万物を創造されました。神はまた人もお造りになりました。

神は自然をも支配されています。目には見えませんが、神は今も生きて働いておられます。神には制限はありません。いつでも、どこででも同時に働くことができます。私たちは限界があります。ですから神の力を求めるのです。全能の神により頼むのです。

神にはできないことはありません。信じて歩みましょう。
  1. 2008/10/23(木) 15:15:49|
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髪の毛

しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父の
お許しなしには地に落ちることはありません。
また、あなたがたの髪の毛さえも、みな
数えられています。
  マタイ10:29,30


スズメは上手に空を飛んでいます。たまに見ていると、うらやますくさえなります。人間はいくら偉そうなことを言っても、空を自分で飛ぶことはできません。小さな小鳥たちがあんなに自由に空を飛んで生き生きとしていることをうらやんでしまうのです。

神はそのスズメの一羽さえも許しがなければ地に落とされることはありません。だれにも認められないで去っていくスズメにさえ、神はみこころをとめて下さっているというのです。すばらしいことです。

私たちの髪の毛一本さえも、神の許しがなければ落とされない。実際、いつ髪が落ちて、どうしてこんなに落ちてしまったのか、本人さえもわかりません。何本あるかさえ知らないのです。しかし、神は私たちの髪の毛一筋さえも覚えてくださっているというのです。すばらしい。

神は私たち一人一人のことを覚えてくださっています。決して忘れておられるのではありません。髪の毛よりも大切な存在であるわれわれのたましいです。滅びることを決して望んではおられません。神に愛されていることを、ぜひとも知ってください。祝福を祈ります。
  1. 2008/10/22(水) 15:22:20|
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神は霊

神は霊ですから、神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければ
なりません。
  ヨハネ4:24

神は霊です。霊は目には見えませんが、確かに存在することがわかります。霊に敏感な人は何かを感じるようで、ある場所にいくと苦しくなるとか、ある場所では悲しくなるとか、どこどこで霊を見たとか、そんな話を聞いたりします。

私はそういう意味では霊に敏感ではないかもしれません。鈍感な方といえます。ただ、神はいたずらに人を恐怖に陥れたり、悲しみを与えたり、呪い的に像を見せたりということはなさいません。ですからオカルトのような感覚でとらえてもらいたくはないのです。

神は霊です。聖霊といわれる聖なる御霊です。聖霊は人を清めます。人を解放します。そして人を高めます。聖霊によって力強く賛美をし、祈り、礼拝をささげるのです。聖霊に満たされなさい、と聖書は言っています。世の霊はどちらかというと、欲とか、罪へと誘うものが多いです。世に生きているとそれらに引きずられることもあります。

聖霊はそのような力から断ち切り、解放して、神の国へと導いてくださるのです。ですから、霊と真をもって礼拝ができるのであります。真とは真実、真剣、真理、まじめに礼拝を捧げるこころです。聖霊に満たされ、真をもって礼拝しましょう。
  1. 2008/10/21(火) 14:38:11|
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もうひとりの

わたしは彼らの同胞のうちから、
彼らのためにあなたのような
ひとりの預言者を起こそう。
わたしは彼の口にわたしのことばを
授けよう。彼は、わたしが命じる
ことをみな、彼らに告げる。
  申命記18:18

紀元前15世紀にモーセが伝えている言葉です。このもうひとりの預言者とは、イエス・キリストのことであります。イエスが生まれたのはBC4年頃と言われていますから、1500年も前に、モーセはイスラエルにイエス・キリストの誕生を預言したわけであります。

モーセといえば、十戒で映画にもなっています。イスラエルをエジプトの奴隷から解放して、紅海を渡った人物です。あのモーセのように民を罪という奴隷から解放するために主イエスは来られるのだ、と預言をしたのです。

そして、イエスはその通りにこの世に誕生されました。イエスの誕生を記念として今の西洋暦があることは周知のことです。このように、旧約聖書はイエスの誕生、生涯、はたらきなどを預言している箇所がいくつかあるのです。ですから旧約と新約とは切り離すことができないのであります。

イエスは、神が命じることをみな私たちに告げておられます。そしてみこころを行なうために世に生まれて、みこころを全うして死んでいかれました。今も、主は聖霊として生きておられます。
  1. 2008/10/20(月) 10:39:24|
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永遠への思い

神はまた人の心に永遠への思いを
与えられた。
  伝道者の書3:11


天を仰いでいると限りなく広がることに驚嘆します。大海の中にいると四方が海、そして水平線が見えるとき限りなく続くことに驚嘆します。宇宙も無限に続いていると想像してしまいます。そして永遠という思いに至るのです。

よく永遠の愛とか、永遠の絆とか表現しますが、それは永遠を意識しているからでしょう。私たちは限りある世に生きています。地球の資源は限りある、とアピールされています。しかし、愛とか、恋、絆は永遠に続いてほしいと願うのです。

神が人に永遠への思いを与えておられるからです。神は永遠にいますお方です。その神がeternity永遠への思いを与えておられるのは、私たちが永遠に生きることを願っているからです。天国において生きる約束を主は与えておられます。

御子イエス・キリストを信じる者が永遠の命をえるために、主は十字架にかかり死んでくださいました。約束です。永遠に対して希望をもって生きることが約束されています。限りある世ではありますが、この世を去っても神とともに生きることが出来るのです。キリストを信ずるなら生きることができます。
  1. 2008/10/19(日) 17:28:17|
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明らか

なぜなら、神について知りうることは、
彼らに明らかであるからです。それは神が
明らかにされたのです。神の、目に見えない
本性、すなわち神の永遠の力と神性は、
世界の創造された時からこのかた、
被造物によって知られ、はっきりと認められる
のであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 ローマ1:19

神は目に見えないお方です。神は霊だからです。目に見えないから存在しないのではありません。神はどこでも同時に働くことのできるお方であります。神の永遠の力は被造物によって明らかになっています。

創られたものがどんなに大きくても、それを創るお方はそれよりももっと偉大でなければなりません。地球一つを考えても偉大です。これを人間が作ることはできません。神が創られたとするなら、神はこの地球よりも偉大でなければなりません。

私たちは神の偉大さ、その力、神性についてはまだ知らないことが多くありますが、それでも神は私たちの想像していたよりももっと偉大であると思います。被造物によって、それは明らかにされます。弁解の余地はないのです。

偉大なる神を大きく信じ、偉大なる神に力強く近づき、偉大なる神を知ろうではありませんか。祝福がありますように!
  1. 2008/10/18(土) 14:47:25|
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世界が造られた

信仰によって、私たちは、この世界が
神のことばで造られたことを悟り、したがって、
見えるものが目に見えるものからできた
のではないことを悟るのです。
 ヘブル11:3

創世記には天地創造の出来事が記されています。神が「光あれ」と言われると光ができました。すべて神の言葉によって天地万物が創られたことがわかります。しかし、学校では創造論を信じていませんので、すべては進化してできたという進化論に立って教えているのです。

信仰によってこの世界が神の言葉によって造られたことを悟り、とあります。よく考え、いろいろと考えていくと神でなければこの宇宙を創ることはできないと悟ります。悟ることは大事なことです。いろんな考えや、理論はありますが、一人一人が悟れるように願うものです。

見えるものが目に見えるものからできたのではないことも、やがては悟るようになります。神はそれぞれをお造りになっています。それぞれに存在の意味と目的を持たせてお造りになっているのです。ですから、不用なものはないのです。ある人は「私なんか必要のない人間」と言いますが、決してそんなことはありません。目的があるのです。神がお造りになったのですから。信仰によって悟りが得られるように祈ってみてはいかがでしょう。
  1. 2008/10/17(金) 10:00:46|
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新しいこと

見よ、わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起こる。
あなたがたはそれを知らないのか。
 イザヤ43:19

主は、新しいことをする、と言われます。私たちは新しいことを期待します。主のなされるわざ、どのような新しいことであるかを期待するのです。

聖書は新約と旧約に分れています。旧約はイエスがやがて来られることを預言しています。従って旧約聖書にはイエスは登場しません。新約聖書はイエスの誕生、生涯、その後について書かれています。新約は旧約に比べて新しいということができます。

イエスがこの世に誕生すること、それ自体が新しいことでした。イエスの言われることや、行なわれることに対して、古い律法学者たちはついていけませんでした。彼らはイエスに敵対し、やがてイエスを十字架につけていったのです。

イエスが語られたことやなされたわざは福音書にくわしく書かれています。人は律法の行いによっては義とされず、ただイエスを信じる信仰によってのみ義とされるというのがイエスの教えでありました。信仰による義人は生きるのです。

また、主は私たちに新しいことを始めさせてくださいます。古い慣習や言い伝えに捉われるのでなく、新しい考えで生きるように導いてくださるのです。あなたがたはそれを知らないのですか。もっと主のなさることに目を開いてみようと思います。
  1. 2008/10/16(木) 17:55:34|
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取るべき地

取るべき地は、なお多く残っている。 ヨシュア13:1


ヨシュアは乳と蜜の流れる地を占領するために、ヨルダン川を渡り、まずエリコを攻めました。エリコは堅牢な城壁に囲まれた町であり、この町を攻め落とすことは至難のわざです。しかし、神はこのエリコを攻めて征服せよ、と命じられました。

今でしたら、戦車とか、爆弾などがあって、可能でしょうが、槍や剣ではどうしようもありません。神が号令をかけられたのであれば、神の方法で攻めることを可能にされるはず。この場合、エリコの城壁を一日に一回六日間廻り、最後の七日目には七回回って、その後で鬨の声を上げよ、と命じられたのです。見ていて周囲の人はどう思ったでしょうね。ただ、もくもくと歩くだけです。

歩き終わってから、いっせいに「ハレルヤ!!」と大きな声で叫んだら、なんとびくともしないはずの城壁ががらがらと音を立てて崩れ落ちて行きました。守りは崩されたのです。そうしていっせいに敵を攻めて征服することができました。神には神の方法があるのですね。

それから次々と攻め取って行きましたが、まだまだ足りません。それで取るべき地はなお多く残っている、とヨシュアは語ったのであります。私たちは自己満足しやすいですが、まだまだ攻め取るべき地は残っています。福音を伝えるべき地は残されています。そう思うともっと奮い立つ必要があります。命の日の限りこのわざを続けて行きたいです。


  1. 2008/10/15(水) 17:06:28|
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時がある

天が下のすべてのことには季節があり、
すべてのわざには時がある。
  伝道の書3:1

私たちの住んでいる世界には季節があります。特に日本は四季があり、そのときどきにおいて季節の彩を堪能することができます。現在は秋です。紅葉が美しい季節です。コスモスもきれいで、えびの市の生駒高原にはたくさんのコスモスが咲き誇っており、見るものを楽しませてくれます。

季節は自然の移り変わりですから、人間の力というより神の力によるものといえます。秋の深まりとともに感傷的になる人がいますが、だんだんと冬の近いことに気づくからでしょうか。冬となると寒さとなります。冬は試練と考える人もいるでしょう。私たちのまわりがそのように季節によって変わるからこそ喜んだり、悲しんだりの人生を楽しむことができるのだといえます。

すべてのわざには時がある、とあります。喜ぶとき、悲しむとき、泣くとき、笑うとき、すべてのわざには時があるのです。いつも笑っているのではありません。いつも泣いているのでもありません。すべてのわざには時があるから、そのときには、笑うもよし、泣くもよし、思う存分行えばいいでしょう。時は神が与えておられます。神の与えてくださっている時を大事にして進んでいこうと思います。
  1. 2008/10/14(火) 15:23:43|
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すぐに来る

わたしはすぐに来る。あなたの冠が
だれにも奪われないように、自分の
持っているものを聖く守っていなさい。
  黙示録3:11

わたしはすぐに来る、というお方はイエス・キリストです。主は天にお帰りになって、今は霊的存在としてご自身を現しておられますが、今度は見える形で再来されるのです。しかも、すぐに来ると約束されています。このことを再臨といいます。

なぜ来られるのでしょうか。一つは地上を裁くためです。罪、汚れに満ちた地上を裁き罪人を永遠の滅びに至らせるためです。もう一つは地上にいる聖徒を迎えるためです。こちらのほうがより大きいと言えます。地上で信仰を持って生きている聖徒たちが、主の再臨を待ち望んでいます。そのときははっきりいつということはわかりません。それでも世がより罪ふかく悪に満ちたときに主は来られるとありますので、もうそのときが近いことを知ります。

あなたの冠が奪われないようにしなさい。冠とはイエスの救いです。罪から救われ、イエスを救い主と信じ仰いで生きる信仰をしっかりと守ることが、冠を守ることであります。それを奪われないように。世の権力者や、為政者によって、何よりも神の敵対者サタンによって奪い去られないように、固く守っていく必要があります。
  1. 2008/10/13(月) 18:02:09|
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くすしきみわざ

わたしは心をつくして主に感謝し、
あなたのくすしきみわざをことごとく
宣べ伝えます。
 詩篇9:1

聖書には「いつもよろこんでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」とあります。日本人は感謝の心はありますが、それを表すのが下手だといわれます。特に面と向ってはうまく言えない、あまり上手にぺらぺら言うと返ってうすっぺらな気持ちしか伝わらないこともあるのです。実に感謝することのむつかしさを覚えます。

神に感謝することは、素直なこころをそのまま表せばいいと思います。人にはいろいろ気を使っても、神には別に気を使うことはないでしょう。素直に「神様、感謝します。ありがとうございます。」「サンキュージーザス」と気持ちを表せばいいのです。ある人は何を感謝すればいいのかわからない、といわれます。そんなときは、身近なこと、衣食住、健康、家族、友人、仕事、、、与えられていることを具体的に感謝すればいいでしょう。

あなたのくすしいみわざを宣べ伝えます。くすしいみわざは奇跡であります。毎日奇跡が起きているわけではないかもしれませんが、今日まで守られていることも考えようによれば、奇跡でしょう。だれかが病気で苦しんでいれば、奇跡を望み、その人のいやしを祈ります。問題が生じたら、神が奇跡を起こし、問題を解決してくださることを求めます。それが実現したら、その出来事を伝えていくのです。主はすばらしいお方です。主に感謝しましょう。
  1. 2008/10/12(日) 10:11:37|
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助けを得た

主はわが力、わが盾、わたしの心は主に
寄り頼む。わたしは助けを得たので、
わたしの心は大いに喜び、歌をもって
主をほめたたえる。
  詩篇28:7

助けを得たという経験があるでしょうか。助かった、と思わず叫んでみたことがあるでしょうか。人に期待しても人は助けてくれないことがあります。実際、助けたくてもその人も苦しい状況ということもあります。助けたくても助けられないのです。

主はわたしの助けです。主はわたしたちを助けてくださいます。人にはできないことも、神はできます。もしいいようのない不安に襲われたとしても、髪に助けを求めれば神は助けてくださいます。信じましょう。

病気、生活苦、家庭不和、職場でのトラブル。いろんなことが起きる時代です。もし突然、そのようなことが起きたとしても心配しないで、主に助けを求めましょう。助けられたときに、大いに主を喜び、主をほめたたえるようになれます。主の祝福がありますように。
  1. 2008/10/11(土) 16:39:00|
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平安な義の実

すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは
思われず、むしろ悲しいものと思われる。
しかし、後になれば、それによって鍛えられる
者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
 ヘブル12:11

訓練によって人は鍛えられます。スポーツの世界では如実にそれがわかります。よく鍛錬する人はそれなりの成果を残すものです。信仰の世界においてもそれは同じです。信仰していると訓練をいろいろな出来事で受けることがあります。それによって鍛えられると自覚できればいいのですが、それによって嫌気がさして信仰から離れてしまう場合があります。

それは実に惜しいことです。訓練は最後まで耐えてこそ実になるものです。苦しいからやめたとなれば、何も実を結ぶことはできません。苦しみながら人は成長します。どんなに苦しくとも歯をくいしばって、それに耐えるならきっとすばらしい実を結ぶでしょう。

ここでは平安な義の実とあります。平安になれるのは、試練や訓練を耐え抜いたからです。義の実とはそれを達成したすがすがしい思いがあるからです。今、訓練を耐えておられる人はどうぞ、主の助けによって耐え抜いてください。きっと平安な義の実が待っていますから。
  1. 2008/10/10(金) 17:29:41|
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たがいに

愛する者たち。
私たちは、互いに愛し合いましょう。
 Ⅰヨハネ4:7

互いに愛し合いましょう。人類がみんな、このような思いになったらずいぶん世の中も変わるだろうと思います。しかし、現実は、多くの人は他の人に迷惑をかけてはいけない、とか普通の常識は持っていると思われますが、ある人たちは自分さえよければよい、といった考えで迷惑を省みないのです。

大阪の個室ビデオ店で起きた火災事故は、ひとりの人の自分勝手な行いによって、15名の人が亡くなってしまいました。火をつけたら火事になり、それによって死者が出るだろうと予測ができたはずです。それなのに火をつけて燃え上がるのに恐れをなして、本人は逃げてしまいました。死にたいと思った人は助かり、何も関係のない人が死んでしまいました。

愛し合うことが、キリストのメッセージです。愛とは相手に対して利益となるようにふるまうことです。たといそれによって自分に不利益を被ろうとも空いてのことを思って行動することであります。愛は惜しみなく与えるものです。互いにそのような愛があれば世はもっと良くなるはずです。愛する者よ。私たちは互いに愛し合おうではありませんか。アーメン。
  1. 2008/10/06(月) 09:54:24|
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あなたを捨てない

わたしは決してあなたを離れず、また、
あなたを捨てない。
  ヘブル13:5

わたしはあなたを離れず、あなたを捨てない。夫婦の話ではありません。神が私たちに対して語っておられる言葉です。あなたを離れないとは、あなたを放さないともとれます。そこには私たちに対する大きな愛があることがわかります。親がわが子を愛し、とことん愛し尽くすように神は私たちをとことん愛し尽くしてくださるのです。

最近は親子でも平気で殺しあう事件が起きています。わが子に手をかけて殺したりする話を聞くと、なぜだろうと思ってしまいます。愛はないのでしょうか。自分のお腹を痛めて産んだ子を殺すなんて考えられないことです。

神は私たちを愛しておられます。神に対して不真実であろうとも愛して見離すことをされません。さらには見捨てることをされません。だからといって好き放題にしていいわけではありません。間違っていれば神はそれを正されます。それも神の愛だからです。あなたは見離されることはありません。見捨てられることもありません。どうぞ、神に目を留めていただきたいです。
  1. 2008/10/05(日) 17:02:12|
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万物

万物は、神からいで、神によって成り、
神に帰するものである。栄光がとこしえに
神にあるように。アーメン
  ローマ11:36

万物は神が創造されました。目にするもの、目には見えないもの、あらゆるものを神がお造りになったのです。人間も神の手によって創造されました。創造されたものの中で最高傑作だったのが、人でありました。造られたものは、みな神をたたえている、とある方が言っておられました。そう言われると、花も神をたたえていると思えます。草も、木々も神をたたえて一生懸命に生きていると思えます。

山や川など自然いっぱいのところに行くと、そこにある草木がいかに人をいやしてくれるかわかります。人の手で作られた機械類は決して人を休ませてはくれません。むしろ人をストレス社会へと追い込むばかりです。神が自然を造られました。ですから、人と自然は一つとなってくつろげるのであります。

一番の傑作である人が、実は神に栄光を帰していません。その口で神をたたえることをしないのです。むしろ同じ口で他の人をののしったり、時には欺いたりしています。私たちのこのくちびるは神をたたえるためにあります。また、他の人を慰め、励ますためにあります。どうか、こころから神に栄光をお返ししましょう。人生がそこから変わってきます。アーメン!
  1. 2008/10/04(土) 16:34:01|
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神の栄光のために

だから、飲むにも食べるにも、すべて
神の栄光のためにすべきである。
 Ⅰコリント10:31

私たちは何かを飲み、食べない限り生きることはできません。毎日、何を食べようかと迷うこともありますが、今日は丸一日何にも食べないでいよう、ということはよほどのことがない限りありえないことです。最近は、バナナダイエットがはやっているそうで、店頭にバナナがなくて、本当に欲しい人が手に入らないと嘆いています。

食べたり、飲んだりは自分のためだと誰もが思っているでしょう。確かにそうです。聖書には食べることも神のために、神の栄光のために食べるのだ、というのです。そう考えると、いたずらに暴飲暴食はできなくなります。好き嫌いもなくなるかもしれません。神の栄光のために食べるのは、与えられた食物に対して、こころから感謝しながら食すということでもあります。

今は食の安全や安心がやかましく言われています。それと同時に、神に感謝のこころをもっていただく必要もあるのではないでしょうか。食を粗末にしないためにも。すべて神の栄光のためにあることをこころにとめたいものです。


  1. 2008/10/03(金) 15:31:25|
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名を呼んだ

恐れるな。わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのものだ。
 イザヤ43:1

恐れるな。神は畏れるべきお方ではありますが、恐れて敬遠するべきお方ではありません。日本の神観念とは違うのです。聖書は、わたしに近づくときに恐れてはなたない、と語っておられます。私たちは神にあがなわれたものです。あがなうとは、一度売り飛ばされていたものを代価を払って買い戻すことであります。罪によって、滅びに追いやられていた私たちを、神は御子イエスの十字架の血によって買い戻し、救いへと導かれたのであります。

さらに、あなたの名を呼んだ、とあります。その人の個性を表すのが名前です。主は個性を重んじて、名前で呼んでくださいます。太郎とか一郎とか花子とかです。名前を呼ばれるというのは特別なものがあります。その他大勢の呼び方ではないのです。同姓同名はいるかも知れませんが、神は正真正銘のあなたを固有名詞で呼んでくださっているのです。なぜならば、あなたを愛しているからです。聖書の中にも「ザアカイよ」とか、「マリヤ」とか、「サムエルよ」などと挙げたらキリがありません。主は今もあなたの名を呼んでくださっています。それに答えてほしいです。
  1. 2008/10/02(木) 17:34:07|
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働く

わたしの父は今に至るまで働いておられる。
わたしも」働くのである。
 ヨハネ5:17

わたしの父とは、天の神様のことです。天の父は今に至るまで働いておられます。働くとは、はたを楽にしてあげること、とある方に聞いたことがあります。自分のまわりにいる人を楽にしてあげることができたら、どれだけさいわいでしょうか。

わたしとは主イエス様です。主は自分も働くと公言されました。30歳になり、公生涯に入られてからは、町々村々のいたるところで出会う人々に福音を語って励まし、また、病人に手を置いてはいやしていかれました。何十人いようが、何百人いようが、最後のひとりまでいやしていかれました。はたを楽にしていかれたのであります。

その主は今も生きて働いておられます。福音を必要とする人には神のことばをもって、福音を伝え、病んでいる人には今もいやしのわざを行なってくださいます。私たちの切実なニーズにも応えてくださるのです。主に求めようではありませんか。主は「わたしも働くのである」と言って働きを進めておられます。

  1. 2008/10/01(水) 16:42:22|
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