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そうすれば

求めよ。そうすれば、与えられるであろう。
捜せ。そうすれば、見出すだろう。
門をたたけ。そうすれば、開けてもらえるだろう。
すべて求める者は得、捜す者は見出し、
門をたたく者は開けてもらえるからである。
 マタイ7:7,8

求めよ。そうすれば、与えられるだろう。この言葉が聖書にあることを知ったのは、高校生のときでした。当然のような言葉ではありますが、よく考えてみると、確かに求めるからこそ与えられるのだ、とわかったものです。求めるにも積極的に、かつ大胆に求める方がいいようです。さらには、与えられるまで求め続けることです。

一度求めてダメだったらすぐに諦める性分ですので、粘り強く、最後の最後まで求め続けることが肝心です。門をたたけ。この言葉は受験のときに学校の先生から何度も語られました。たたかなければ開けてもらえません。玄関まで行っても、そこでもう一押し、ドアをたたいて進んでいく勇気とチャレンジ精神が必要です。

これから新しいことをしようと考えておられるなら、この聖書のことばをこころに留めて進んでいただきたいです。主が必ず良い方向へと導いてくださると思います。
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  1. 2008/09/30(火) 17:15:19|
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完全なもの

さまざまな試練にあうときは、それをこの上もない
喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じる
ということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば
あなたがたは、何一つ欠けたところのない、
成長を遂げた完全なものとなります。
 ヤコブ1:2-4

 試練をこの上もない喜びと思いなさい。正直、そこまで思うにはある程度は上達していないとむつかしいように思います。そうなると、このみ言葉は普通の人にはむつかしくて無理なのか、と言われそうです。聖書は無理なことは要求していません。人は成長することができますので、最初から諦めてはならないのです。

試練をネガティブに捉えると、何でもが無理に思えてしまうのです。むしろこれを超えることによって、より上に上ることができるのだ、と信じて臨むのです。そうなると試練が苦痛でなくなり、喜びに変わってくることでしょう。喜びと受けとめなさい。発想の転換です。この上もなく喜びを主が与えてくださった、と思えば楽しくもなります。

信仰が試されて、忍耐が生み出されるからです。角のある人が試練を通ることによって丸くなり、忍耐するようになるのです。忍耐は長さを耐えることでもあります。忍耐すると、完全な人と変わってくるのです。一朝一夕にはできないことです。けれど試練を通って、時間を経過することによって成長し、完全な姿に変えられていきます。主がそのように成長させてくださいます。
  1. 2008/09/29(月) 16:19:33|
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元気を出しなさい

あなたがたも心配しないで、安心していなさい。
こんなにも念には念を入れて話してあげたのは、
そのためなのですから。確かにこの世では苦難
と悲しみが山ほどあります。
しかし元気を出しなさい。わたしはすでに世に
勝ったのです。
  ヨハネ16:33

確かにこの世では苦難と悲しみが山ほどあります。なるほど、とうなづいてしまいます。苦難は四苦八苦などと言われていますが、人生においてどうしても通るべき苦難を通らされるものです。苦難は当然のごとく、悲しみを伴います。病気や死のときは悲しみも極限に至るでしょう。

苦難は否定できないことです。それを認めた上で、主は、しかし元気を出しなさい、と命じておられます。元気は空元気ではありません。根拠のある元気です。へたすると、励ましが逆効果になる場合があります。励ましたつもりが逆に落ち込ませることになったりすると、これもむつかしいものだと考え込んだりしますね。主は、「わたしはすでに世に勝ったのです。」と語っておられます。すでに世に勝ったお方が、私たちを励まし、勇気づけておられるのですから間違いありません。

プロに励まされたら、この上ない勇気付けとなります。主はあらゆる人の主ですから、そのお方が世に打ち勝っておられるのなら、心配しなくても大丈夫です。安心していることができます。人生のあらゆる苦難を通って来られた主が、元気を出しなさい、と今も励ましておられます。元気を出して行きましょう。
  1. 2008/09/28(日) 15:55:25|
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試練と共に

あなたがたを襲った試練で、人間として
耐えられないようなものはなかったはずです。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられない
ような試練に遭わせることはなさらず、試練と
共に、それにたえられるよう、逃れる道をも
備えてくださいます。
 Ⅰコリント10:13

 試練はだれもが望むものではありません。できることなら試練なんか来て欲しくないと願うはずです。ところが、いくらそのように願ったとしても試練はやって来ます。学生であれば試験こそが、まずは試練となるでしょう。学校を卒業すると、定期的な試験はなくなりますが、その代わりにもっと厳しい社会での試験が待っています。

 社会人として歩むとなると、礼儀作法や、身だしなみ、ことば使いなど気をつけないとダメだしをくらうことになります。そんな試練はまだ序の口です。横綱になると、よく品格を問われますが、われわれもある程度生きてくると、それなりの品格や人格を問われることになります。

 神はそんなときに試練を与えて、正しく真理の道を歩くようにされるのです。どうしても悪や欲が世にははびこっていますから、そのような邪悪な道に逸れてはならないからです。試練を与えられますが、それとともに逃れる道も備えてくださいます。試練でつぶれないように守ってくださるのです。今、試練と感じている人にも主は、そこから逃れられるように道を備えてくださっています。主に委ねて歩んでください。
  1. 2008/09/27(土) 16:59:47|
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天下にない

この人による以外に救いはない。
私たちを救いうる名はこれを別にしては、
天下の誰にも与えられていないからである。
 
       使徒の働き 4:12

 天下というと少し古くさいイメージがしますが、世界の中でと言い換えればリアルに伝わってくると思われます。この人による以外に救いはありません。この人とは主イエス・キリストのことであります。今からおよそ2千年前に、イスラエルに誕生したイエスが、世の救い主として歩み、そして最後には十字架にかかり死んで行かれました。

 イエスはユダヤ人だけの救い主ではありません。世界中の救い主であります。この人によって、罪からの救いと永遠のいのちを、私たちは受けることができたのです。日本でもイエスは救い主です。まだ多くの人がイエスを受け入れてはいませんが、日本のすべての民のためにも、主は救い主となってくださったのであります。イエス、その名こそ世界中でたたえられるべき名前です。

 主は今も生きておられます。病気をかかえている人、将来に不安のある人、精神的な弱さのある人、家族や親族に悩みを持っている人、どのような重荷や苦しみを持っていようとも、主イエスは「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。」と言って、招いてくださいます。主のところに、ぜひ行きましょう。
  1. 2008/09/26(金) 16:49:20|
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抱いている計画

主は言われる。わたしがあなたに対して
いだいている計画はわたしが知っている。
それは災いを与えようというのではなく、
平安を与えようとするものであり、
あなたがたに将来を与え、希望を与えようと
するものである。その時、あなたがたは
わたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。
わたしはあなたがたの祈りを聞く。
 
              エレミヤ29:11,12

 主のご計画は私たちにとって、災いを与えるものではありません。平安を与える。将来を与える。希望を与える。そのように約束されています。神というと恐れ多い存在として、気軽に近づけないし、遠巻きにして祈らないといけないと勘違いしている人もいるようです。

 神は平安を与えてくださいます。ほとんどの人が望んでいるのは平和であり、心の平安だと思います。国も平安であれと望む人が多いでしょう。将来と希望を与えてくださいます。どんなに希望が持てそうになかったとしても、主は希望を与えてくださいます。

 そのためには、わたしに呼ばわり、来て、祈りなさい、とあります。神に気兼ねなく近づくことです。そして率直に願い求めるのです。お祈りとは自分の願いを率直に願う行為です。神との会話がそこにできます。来て、主にお祈りしましょう。主は、あなたに希望と将来を与えてくださいます。
  1. 2008/09/25(木) 15:55:13|
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千年のよう

主にあっては、一日は千年のようであり、
千年は一日のようである。
  Ⅱペテロ3:8

 一日は24時間です。これは世界のすべての人に平等に与えられています。その限られた中でいかに有効に、かつ有意義に時間を過ごすことが出来るかが問われています。無為に過ごしても同じ時間です。有効に過ごしても同じ時間です。できるならば無駄には使いたくないものです。

 さて、主にあっては一日は千年のようである、とあります。千年とはまた長い年月です。どんなに長生きしてもそんなには生きれないでしょう。しかし、神の目ではそれくらいに、見えるのです。一日が千年のように映る。千年がわずかな一日のように映る。発想の転換です。一つのことばかりに捕らわれていたら、それだけで終わってしまいかねません。神の見地から私たちも考えてみる必要があります。
将来のこと、家族のこと、自分のこと、会社、学校、地域社会など実に小さな出来事で大きく悩んでいる場合があります。それを神に委ねたら小さい悩みだった、と気づかされます。そして、まだまだ長く生きることができるんだ、と希望を持つこともできます。主にあって前向きに生きるものとなりましょう。

  1. 2008/09/24(水) 18:39:56|
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まどろむこともない

主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。
  詩篇121:3,4

私たちの主は、私たちを守ってくださるお方です。しかも、昼だけでなく、夜も、私たちが眠っているとくいさえもまどろむこともせず、眠ることもなく守ってくださるのです。なんとさいわいなことでしょう。このお方こそ主なるキリストであります。

子どもが恐い夢をみたときに、恐くてうなされたとしても近くに母親がいて、「大丈夫よ」とやさしくいってくれるなら、子どもは安心して眠ることができます。主はそのような愛でもって私たちを見守ってくださいます。ただ信頼して委ねればいいのです。あなたの足がよろめかないように、主は支えてくださいます。ハレルヤ!感謝です。
  1. 2008/09/23(火) 17:35:44|
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山に向って

わたしは山に向って目をあげる。わが助けは、
どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を
造られた主から来る。
   詩篇121:1

日本は山の多い国であります。そんな山を眺めていますと、よく思うのですが、こんな大きな山を造られた方がおられるのだ。そのお方はなんと偉大なお方であろうか、と。高い山であればあるほど神秘的なもの、力を感じたりします。

日本の宗教の本山は結構山にあったりします。それだけ霊的なものが感じられるからでしょう。ただわれらの主は石や、木に宿られるといった神ではありません。ですからいかに神秘的に見える岩や木々であっても、それを信仰の対象としたりはしません。それは被造物であり偶像になるからです。われらの主は、これらの自然をお造りになったお方です。

山に向って目をあげるのは、そこに偉大なる主を見出すからです。主の御手で造られた山。偉大な主は、今のわたしに力を与えようとしておられる。わたしを助けてくださっているのだ、と主の臨在を覚えるのです。信仰とは仰ぐと書きますが、主を見上げることです。主を見上げれば、主は助け主となって導いてくださいます。ハレルヤ!
  1. 2008/09/22(月) 11:25:50|
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生み出す

患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、
錬達は希望を生み出す。
  ローマ5:3,4

患難はだれも望むものではありません。しかし、だれにも患難はやって来ます。それならばこれを否定的に捉えるのでなく、積極的に捉えてみてはどうでしょうか。悪いことは来て欲しくないといった思いがありますので、どうしても患難を拒絶しがちですが、考えようによってはこれがその人の人生にとってとっても役に立つ場合があるのです。

患難は忍耐を生み出します。忍耐が必要なときに忍耐できない。それは患難をうけることが少なかったからだといえます。苦しんだ人ほど忍耐力があります。今のこの苦しみは今の私に必要なこと、これを耐えてこそ次に進むことができるのだ、と思うならさいわいであります。

忍耐は錬達を生み出します。玄人になるには並々ならぬ苦労の連続を経てなれるものです。どんな職人でも一流になるには忍耐が数え切れないくらいにあるものです。錬達は希望を生み出してくれます。一足飛びに患難が希望に行かないです。ずっと忍耐して錬達して、希望が生み出されてきます。最後はやはり希望とつながっていきます。決して失望で終わることはありませんから、今の苦労を我慢して、忍耐して進んでいきましょう。
  1. 2008/09/21(日) 11:01:09|
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信じなさい

主イエスを信じなさい。そうしたら、
あなたもあなたの家族も救われます。
 使徒の働き16:31

 ずばり、主イエスを信じなさい。そうしたら救われます、とあります。救われるとは、危険な状態から救い出されるということです。しかし、ほとんどの人は自分が危険な状態にあることを知らないで普通に生活しています。

罪を犯すたましいは死ぬとあります。ただ単に体の命が絶たれることを意味していません。たましいが滅びることを指して言っているのです。人は死ぬことと死んだ後に裁かれることが定まっているのです。ですから、主イエスを信じなさい、と勧めています。この罪から救い、いのちを与えることの出来るのは主イエスしかいないからです。

このお方は、その人だけでなく、その人の家族をも救ってくださいます。あなたもあなたの家族も救われると約束してくださったのです。自分だけ救われるのであれば、実にさびしいです。主は家族みんなが救われて天国に入ることを願っておられます。まずは、あなたが主イエスを信じてください。
  1. 2008/09/20(土) 17:13:34|
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しかし、わたしたちは、この宝を土の器の中に
持っている。その測り知れない力は神のもの
であって、わたしたちから出たものでないことが、
あらわれるためである。
  Ⅱコリント4:7

私たちとは、この場合、主イエスを信じて従っているひとたち、すなわちクリスチャンを指しています。クリスチャンは土の器の中に宝を持っています。土の器とは、生身の体のことです。クリスチャンといえどもスーパーマンではありません。空を飛んだり、怪力があるわけではありません。生身の体を持った弱い存在です。土の器ですから、すぐに壊れる可能性もあります。

ここで言っているのは、弱い存在のことではなく、その土の器にある宝のことです。器には金で買えない宝が入っています。今は何でも金にしようという時代ですが、こればかりは金にすることは不可能です。宝とはキリストであり、キリストに対する信仰であります。たとい器は脆弱であっても、その中にある主は偉大なお方です。主を信ずる信仰も、測り知れない力を発揮します。

日本的な信心は、儲けることが先でしょうが、キリストは金儲けの信仰ではありません。人々をこころから幸せにする祝福の宗教であります。祝福の現われとして、いやしや、霊の解放、問題の解決、死人の復活などあると言えます。人の力は限りがありますが、神は無限なるお方です。測り知れない力を持っておられます。その力を引き出す信仰がこの土の器の中にはあるのです。


  1. 2008/09/19(金) 16:51:52|
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行く道を喜ばれる

人の歩みは主によって定められる。
主はその行く道を喜ばれる。
たとい人が倒れても、全く打ち伏せられる
ことはない。
主がその手を助け支えられるからである。
  詩篇37:23,24

人の歩みは自分で決めるもの、自分の人生だからと思っていました。しかし、ここには人の歩みは主によって定められる、とあるのです。確かに、自分の意思でこの世に誕生した人はひとりもいないでしょう。自分で両親を選ぶこともできません。兄弟にしても自分が選んだわけではありません。

この世に生を受けたのは、自分の意思というより神のみ旨によったと解釈すべきかと思います。そして今あるのも神のみ旨。神によって定められていることです。ただ、そのことを本当に確信するには神に近づいて祈る必要があります。神のみ旨を積極的に知るのです。そして、神の喜ばれる道を歩むならばさいわいです。

神はその人を喜んでくださいます。倒れるような事態になったとしても、主はその人を守り、支えてくださいます。私たちは主なる神によって守られ、その歩み、人生を祝福されて導かれていることを知るべきです。あなたの歩む道を主が喜ばれますように。
  1. 2008/09/18(木) 16:13:56|
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和合して共にいる

見よ。兄弟たちが和合して共におるのは、
いかに麗しく楽しいことであろう。
  詩篇133:1

兄弟たちが和合して共にいることは、さいわいです。仲良きことは楽しきことかな、とあります。家庭が和合することほど必要なことはありません。今日は家庭不和が多いように思われます。親子の事件、兄弟同士の事件があまりにも多いからです。

兄弟は和合することが望ましいです。そうするならば、多少のけんかなどはあったとしても、すぐに許し合えるからです。愛があるから和合できるのです。これは教えることも必要でしょうが、親がまずわが子を心から愛することを実践して初めて教えられるものと言えます。愛することを代々にわたり引き継いでいくべきです。物があふれて豊かになると、心が貧弱になって相手の気持ちや心がわからなくなります。許しと愛、受け入れるこころ。謙遜を備えられるようになりたいです。

教会ではお互いを兄弟姉妹と呼んで、そのような付き合いをします。ですから教会ではいつも和合しあって、麗しく楽しい雰囲気があるのです。
  1. 2008/09/17(水) 16:52:26|
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覚えよ

あなたの若い日に、あなたの
造り主を覚えよ。
  伝道の書12;1

 あなたの若い日はいつでしょうか。20歳の頃と考える人が多いかもしれませんが、本当に若い日は今しかないのです。過去の若いときを懐かしんでみても、もう一度戻って来てはくれません。だから、今が一番若いときであると言えます。

 今こそ、あなたの造り主を覚えなさい。造り主とは神のことです。天地万物を創られた神は今も生きておられます。空も海も大地も、そしてそこに住む生き物たちをも創られました。当然のこと人間も創られたのであります。

 創造者を覚えなさい。覚えるとは心にしっかりと刻み込むことです。覚えるといえば、単語を覚えるみたいに感じる人がいると思います。ただ機械的に覚えるのではありません。自分の意思で信じ、霊と心で体験し、深く神を体験することであります。聖霊に満たされることが必要です。

 どうぞ、あなたの心にあなたを創られた神を受け入れてください。そして、いつでも「主よ、あなたを歓迎します」と心を広くして迎え入れてください。神の祝福がありますように。アーメン!
  1. 2008/09/16(火) 20:51:13|
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敬え

あなたの父と母を敬え。
          出エジプト20:12 

今日は敬老の日です。日本の70歳以上の方は2千万人を越えたそうです。今日はおじいちゃん、おばあちゃんを敬う日であります。だからといって「あじいちゃん、おばあちゃん。敬老の日おめでとう!」というのも何か気もひけます。長生きしてよかったね。これからも元気でいてくださいね、という意味で敬老の日はあるのだが、素直に受け止められたらさいわいです。

教会では今日は特別集会を持ちました。大分からH先生ご一家がこちらまで来てくださって、教会のみんなと一緒に礼拝を持ちました。とても祝福に満ちた礼拝となりました。H先生は、特に70歳以上の人を前に出して、祝福があるようにとひとりひとりに手を置いて祈ってくださいました。これは特別な祝福のときでありました。

自分のところでは特別に企画していませんでしたが、あえてご老人のために祝福を祈ることはいいだと思わされました。聖書には「白髪の人の前では起立しなさい」とあります。人生の先輩方に敬意を払うことは大事ですね。父と母を敬いなさい。これは家族の大事な教えであり、それがなされることによって、家族が祝され、その地域が祝され、社会が、国が祝福されていきます。大事な戒めです。大事だからもう一度、あなたの父と母を敬え。アーメン。
  1. 2008/09/15(月) 17:16:58|
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そのとおりになる

心に疑わないで信じるならそのとおりになるであろう。
何でも祈り求めることは
すでにかなえられたと信じなさい。
そうすればそのとおりになるであろう。
  マルコ11:22-24

信仰とは望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認すること、と聖書は教えています。疑わないで信じ、しかも最後まで信じ続けることです。そうするとすごく大変そうですが、本当にこれしかないと思ったら、それをとことん信じるのではないでしょうか。

日本人はとことん信じることに躊躇します。深入りすると危ない、とかほどほどが一番いいのだ、と考えてしまいますが、そのような考えや態度が結局どっちつかずの中途半端で終わってしまうことになりがちです。神はとことん信じていくべきお方です。聖書では、私たちが神に求めていくならば、その祈り求めたことは、すでにかなえられているとあります。

この求めは中途半端なものではありません。心から信じて求め続けた求めなのです。そうすれば祈りがかなえられるのです。不信な世界に生きていますので、信じることに臆病になりやすいですが、この神は信ずるに足るお方ですから、心から信じて歩んでほしいです。私ももっとそのとおりになることを体験したいです。
  1. 2008/09/14(日) 17:08:25|
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多くの計画

人の心には多くの計画がある。しかし、
ただ主のみ旨だけが堅く立つ。
  箴言19:21

人の心には多くの計画がある。あれもしたい、これもしたいと願うのが人の心です。多くの計画があったとしても、その計画通りいくとは限りません。いくら周到な準備をしたとしてもそのとおりにならないことが多いのです。

たとえば、野球を考えると、たくさんの試合があったとしても同じスコアで同じ試合はありません。みんな別なものであります。筋書きのないドラマとか言いますが、そのとおりだなと思いますね。人の人生もそうです。同じように見えたとしても、決して同じではありません。双子、三つ子、五つ子が顔や体型がいくらそっくりであったとしても、同じ人生を送ることはないです。それぞれの人生を歩みます。

多くの計画があっても、主のみ旨のみが堅く立つのです。ということは、自分の人生は間違いだったと悔いるべきでしょうか。いいや、今まで歩んだ道は主のみ旨の中で導かれていると信じるべきです。そして、これからはもっとその思いを強くもって、主により頼んでいけばいいのです。主のみ旨がどうか堅く立ちますように。信じます!と祈って進みましょう。
  1. 2008/09/13(土) 16:47:05|
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神の平安

何事も思い煩ってはならない。ただ事ごとに
感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの
求めるところを神に申し上げるがよい。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることの
できない神の平安が、あなたがたの心と思いとを
キリスト・イエスにあって守るであろう。
  ピリピ4:6,7

最近は思い煩うことが多いです。安心して暮らせない時代に生きています。三笠フーズの事故米の不正販売によって、ますます安全は損なわれ、安心な暮らしは失われつつあります。そんなときに、政府は総裁を決めることでお祭り騒ぎです。ちゃんと対策をとってほしいものです。

さて、苦情や困りごとを誰かに訴えたくなるものですが、聖書には思い煩いは神のもとに持ってきなさいと言われます。事ごとに感謝をもって祈り、願いを神にささげなさいというのです。できますか。私たちの信じている神は偉大な神です。どのような祈りでも願いでも受けとめてくださいます。

この神に祈り、そして委ねていくなら、私たちは重荷から解放されます。そして、大きな平安が与えられるのです。人知を超えた平安、しかも神の平安が与えられるのであります。感謝します。どう祈っていいか、わからない人は一度、教会をお訪ねください。きっと牧師が親切丁寧に教えてくれることでしょう。
  1. 2008/09/12(金) 16:59:15|
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神のわざが現れる

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでも
なく、両親でもありません。神のわざがこの人に
現れるためです。」
  ヨハネ9:3

イエスの弟子たちが道ばたで物乞いをしている盲人を指さして、「この人が生まれながらに目が見えないのは、この人が罪を犯したからですか。それとも両親が犯したからですか。」と質問しました。すると主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親が犯したのでもありません。」と答えられました。

人は因果応報と考えます。人が不幸になるのは本人が悪いことをしたか、両親か、先祖が悪いことをしたからだ、と本気で思っていたりします。呪いがそこにあるのだとも考えます。しかし、それはあまりにも短絡的で、その結果、ますます人を不幸へと追い込んでしまうだけです。

主は「神のみわざがその人に現れるためです。」と答えておられます。ばちがあたったわけでもなく、これから神がみわざを現すためだと教えられたのです。どんなにひどい病気にかかったり、不幸にして盲人で生まれたり、障害を負って生まれたとしても、嘆くことはありません。神のみわざが現れるのです。すなわち、その人は目が見えるようになる。歩けるようになる。しゃべれるようになる。病気もいやされる。見える形で神のみわざは現れます。嘆くのでなく、信じて求めることが大事です。

イエスが来られたのは人を救うためでありました。救いを必要としている人はたくさんいます。人にはできなくても、神にはできないことはありません。いやされるのです。信じましょう。この盲人はみごとにいやされて、しっかり見えるようになりました。

  1. 2008/09/11(木) 17:15:36|
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真実のわが子

同じ信仰による真実のわが子テトスへ。
父なる神および私たちの救い主なる
イエス・キリストから、恵みと平安が
ありますように。
  テトス1:4

テトスはクリスチャンとして生きていました。パウロがを通してキリストを信じ、新たに生まれ変わったのであります。そればかりか、キリストを伝える伝道者としての働きも忠実に行なっていました。

パウロはテトスを真実なわが子と表現しています。肉親としての親子ではありませんが、もっと深い霊的なつながりにおいて、親子の関係となったのです。同じ信仰を持つことは、単に同じグループになったとかいうよりも、深くて強い絆で結ばれるのであります。

父なる神と、救い主イエス・キリストから恵みと平安がありますように。恵みは霊的な恵み、上より流れてくる神の祝福です。平安は心に与えられる穏やかな思いです。それはイエス・キリストが与えて下さるのです。日々の生活の中で主が与えてくださる恵みにただ感謝したいものです。あなたの上にも神の恵みと平安がゆたかにありますように。

  1. 2008/09/10(水) 16:26:56|
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真実を言う

私はキリストにあって真実を言い、
偽りを言いません。
   ローマ9:1

昔のアメリカの映画などで、「インディアン。ウソつかない。」というセリフがありました。ということは、インディアン以外の人たちはよくウソをついていたのでしょうか。信用がなかったのでしょうか。人間はウソをつくと信用を失います。信用は一日では生まれません。長い間の積み重ねで生まれて来るものです。

パウロは「私はきリストにあって真実を言う」と語っています。高貴なる人の前でウソをつくことははばかられます。イエスはいと高きお方です。神の前で偽りを言うことは絶対にできないことです。ですからいつもパウロは神の前で話すように、真実を語り、偽りは言わなかったのです。

今の時世はウソがまかり通る気がしてなりません。相撲の関取が大麻の吸引を調べられて黒と判断されましたが、彼らはずっと「知らない。やっていない」といい続けました。単なるドーピングでも選手生命が危ういのに、大麻は犯罪です。それを見たことも、さわったこともない、と言われても検査の方をどう説明すればいいのか。真実が問われます。神の御前で真実を言い、偽りを言わないようになってほしいです。このことはとても残念でした。結局は二人兄弟とも解雇されてしまいました。
  1. 2008/09/09(火) 17:33:43|
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土の器

私たちは、この宝を、土の器の中に
入れているのです。
  コリントⅡ4:7

土の器とは人間のことを意味しています。人の一生は長くても70年から80年といわれます。もっと長生きをする人もいますが、100歳以上生きても、150歳まで生きれるという人はいません。オギャーと生まれた人は、いずれはこの世を去っていかなければなりません。早くても、遅くてもこの世とお別れする日は必ずやってきます。

土に帰ると表現されています。人は土から造られ、いずれは土に帰るのが宿命です。私たちは土の器であります。その土の器に、この宝を入れているというのです。宝とは金よりも尊く、もっとも価値あるものです。それはかけがえのないもの、すなわち命であります。しかも永遠の命を持っているのであります。土の器に永遠の命を与えられている。たとい死んでも生き続けることができます。主は私たちに永遠を思う思いを与えてくださっています。

さらにこの宝こそ、救い主イエス・キリストそのお方であります。主こそ私たちの宝です。かけがえのないお方です。器は壊れやすい、弱い存在ですが、その中に宝が入っているのです。だから私たちの人生は価値があるのです。ハレルヤ!主に感謝します。
  1. 2008/09/08(月) 17:26:40|
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同じです

イエス・キリストは、きのうきょうも、
いつまでも同じです。
  ヘブル13:8

きのうもきょうもいつまでも同じです、とはっきり言える人はいないかもしれません。少なくとも私は、きのうもきょうもいつも違います、と弁解することばかりです。それだけ心が変わりやすいということです。特に人の意見や批判に敏感に反応してしまって、心が揺れることがしばしばです。優柔不断な性格でしょうか。

イエス・キリストはその点、きのうもきょうも、いつまでも同じなお方です。同じというと成長がないように思いますが、そういう意味ではありません。変わらないということは、いつも真実だということです。変わるということは不真実ということですね。人間は真実でありたいと思いつつも、不真実になってしまいやすい弱さを持っています。

いつまでも変わらないお方が、真実に私たちを愛してくださっています。決して裏切ることはありません。見離すことも、見捨てることもなさいません。イエス・キリストは愛なる神だからです。永遠にいたるまで真実な愛で愛してくださいます。主に感謝します。
  1. 2008/09/07(日) 21:14:26|
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無にしない

私は神の恵みを無にはしません。
                   ガラテヤ2:21 

 生活で無駄にしているものはありませんか。物でも、時間でも結構むだにしてしまうことがあります。日本では食糧自給率は39パーセントと言う割には、残ったもの、期限が切れたものはすぐに処分してしまいます。たしかに期限切れで食中毒を起こされたら、それこそ大事ですからある面仕方はありませんが、それにしても捨てられるものは何と多いことでしょうか。

 無駄にしないと意識しておれば結構有効に生かすこともできます。ただ、時間や物は無限ではありません。取り返すことが出来ないこともあります。ですから、そのときを逃さないようにすることも大事です。そのうちに行くから、そのうちにするからと先延ばししてしまいがちですが、それでは無駄がでてきます。健康でもそうです。そのとき診てもらい、直さないと取り返しはつきません。

 キリストの恵み、神の恵みも同じです。そのうち信じるからと考えていると、ついにそのときはやってきません。今は恵みのときであり、今が救いの日です。今を逃さないようにしましょう。神があなたに語っておられることに、耳を傾け、この機会を決して逃さないようにしていただきたいと思います。
  1. 2008/09/06(土) 17:39:23|
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神に生きる

しかし私は、神に生きるために、
律法によって律法に死にました。
  ガラテヤ2:19

 大義名分があるとすれば、神に生きるためだとパウロは主張するでしょう。今、生きているのは神に生きるためだし、もし、死ぬようなことがあっても神に生きるためだ、どんなことであっても神に生きるために行なうのだと主張するでしょう。

 この世にはそれほどしっかりとした生きる目的を持った人がどれくらいいるでしょうか。特に日本人は何のために生きるかと問われても、はっきりとしたことを言えないそうです。国のため、天皇のためといって死んで行った先輩たちがいたからでしょうか。極端な全体主義は唱えなくなりました。それはそれでいいことですが、どうも芯がない気がします。

 国のトップである総理からして政権を投げ出す国ですから、これでは子どもにどう言い聞かせてもッ説得力に欠けてしまいます。パウロはキリストのために律法に死んだといいました。律法は人を罪に定め、裁きをします。キリストが律法を成就するために、自分の命をささげてくださいました。律法によって煩わされることはなくなったのです。ただ、感謝して歩めばいいのです。今日も、明日も、その次の日も、このお方、イエス・キリストにしたがって歩みましょう。
  1. 2008/09/05(金) 17:25:45|
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義と認められる

しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認めら
れる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・
イエスを信じたのです。
  ガラテヤ2:16 

パウロが一番主張したかったところがこの部分でしょう。律法の行いによって人は義とされる、と考えたのが旧約聖書の時代です。しかし、イエスがこの世に誕生されてから、新約の時代が始まりました。そこに大きな変化が起きたのです。

律法の行いでは人は義とされない。人は律法を完全に守ることはできないことをすでに知っていました。それで、イエスが世に現れて、律法を廃すためではなく、それを全うして、成就するために来られました。イエスは最後には、十字架にかかり死んでいかれましたが、これこそ律法の完成であったということができます。

イエス・キリストを信じる者が義とされるように道を備えられたのです。キリストの十字架は私の罪のためであった、と心から信じて歩むなら、その人は神に義と認められます。しっかりと主イエスのわざを信じて受け入れないといけません。私たちもキリスト・イエスを信じたのです、と確信をもって告白できるようになりましょう。
  1. 2008/09/04(木) 17:16:30|
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歓心

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。
いや、神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心
を買おうと努めているのでしょうか。もし私が
いまなお人の歓心を買おうとするようなら、
私はキリストのしもべとは言えません。
 ガラテヤ1:10

人の歓心を買うということは、そこに何かの下心がある場合が多いです。政治家などは選挙の前になるとすごく下手に出て「よろしくお願いします」と頭を下げますが、当選したら手のひらを返したように態度が変わってしまうことが多いです。人の歓心を買うために運動もしているのでしょう。

クリスチャンは人の歓心を買うような生き方はしません。ペシャワール会の中村哲さんは、「だれも行きたがらないところに行き、だれもやりたがらないことをする」とこの会の目的を語っておられます。彼はキリスト者としてそのような生き方をしておられるのです。決して人の歓心を買うためではありません。その精神に感動した伊藤さんはアフガニスタンで献身的に現地の人のために生きてきました。今回、不幸にも殺害されましたが、そのわざはみんなの心に生き続けています。

キリストのしもべは、ただキリストに喜ばれるために生きるのです。主のみこころが何であるかを知って、そのために全力を注ぎます。生きるのも主のため、死ぬのも主のためです。主に喜ばれるように生きることが、最高の生き方だと信じているからです。
  1. 2008/09/03(水) 17:43:59|
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ほかの福音

私は、キリストの恵みをもってあなたがたを
召してくださったその方を、あなたがたが
そんなに急に見捨てて、ほかの福音に
移って行くのに驚いています。
  ガラテヤ1:6

キリストの恵みをもって召してくださった、とあります。私たちが救われて、ここにあるのはキリストの恵みによることです。恵みとは一方的に与えられるものであり、本来なら受ける値打ちのない人に与えられるものです。

私たちはキリストに召されたものです。召集されるというと、かつての戦争の暗いイメージがありますが、キリストにあって召されることは、暗いことではありません。むしろ明るい、感謝すべきできごとです。もし、召されなかったら救いはないからです。イエス・キリストにあって、罪から救われ、永遠の命をいただいているのです。

ここに他の福音と表現されています。福音はキリストにかかわることです。ほかの福音とは、キリストにかかわらないもの、他の人が勝手に作り出したものと言えます。ですからほかの福音というものは存在しないのです。一般には異端といわれています。異端は正しくキリストのことを説いていません。それですから真の救いからは遠いといわなければなりません。
  1. 2008/09/02(火) 19:16:15|
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使徒となった

使徒となったパウロ----私が使徒となったのは、
人間から出たことでなく、また人間の手を通した
ことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の
中からよみがえらせた父なる神によったのです。
 ガラテヤ1:1

パウロといえば1世紀を代表する人物のひとりです。キリスト教の礎を築いた使徒であります。ほかにペテロ、ヨハネなどあげることができますが、パウロはイエスが生きておられたときに弟子となったのではありません。ですから12弟子の中には入っていないのです。

パウロは教会が興り、その力が大きくなることに危惧したひとりです。最初はキリスト教を迫害していた人物でありました。そんな迫害者がイエスとの劇的出会いによって、パウロはクリスチャンとなりました。そればかりか、キリストの名を伝える伝道者、使徒となったのです。

パウロはそのことに触れて、自分が使徒となったのは人間的な思惑や、人の力ではない。イエス・キリストと神の導きによったのである、と強調して語っています。自称使徒では、だれでも存在しそうだからでしょう。パウロは自称でもなく、推薦されてでもなく、神から直接に任命されたという確信がありました。それは絶対ゆらぐことはありませんでした。

ですから、パウロは事あるごとにイエスのことを語り続けていったのであります。彼は口を開けばキリストで、とにかくキリスト命といった生き方に徹したのです。人は変われば変わるものです。このようにつくり変えることのおできになる神はなんとすばらしいお方でありましょう。
  1. 2008/09/01(月) 19:00:54|
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