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かきまわす

乳をかき回すと凝乳ができる。
鼻をねじると血が出る。
怒りをかき回すと争いが起きる。
  箴言30:33

乳からバターやチーズが作られます。乳をかき回すと凝乳ができますが、怒りをかき回すと争いが起きます。小さな兄弟同士の争い。親子の争い。隣人との争い。学校での争い。地域同士の争い。国との争い。最初はささいなものだったかもしれませんが、それが大事に発展してしまうことはありえることです。

ロシアとグルジアとの関係はとうとう国交断絶に至りました。その先にはロシアとNATO、ついにはロシアとアメリカとの関係すらも危うくなりそうです。怒りをかき回した人がいるからです。本当は話し合いで解決すべきことなんでしょうが、お互いに利害がからんでなかなか話し合いもできない状況になっています。

冷戦の再来となるのでしょうか。せっかくオリンピックで平和な思いになったというのに、終わってしまうとこんな現実が待っていたとは残念です。怒りをかき回さないようにしなければなりません。それは当事者の責任です。もし自分のまわりに争いがあるのなら、もう一度、怒りの矛先をおさめて、争いにならないようにしようではありませんか。平和を作り出す人はさいわいだ、とイエスは教えておられます。その人は神の子と呼ばれるのです。
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  1. 2008/08/31(日) 16:26:51|
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すべて純粋

神のことばは、すべて純粋。
神はより頼む者の楯。
神のことばにつけ足してはならない。
神が、あなたを責めないように、
あなたがまやかし者とされないように。
 箴言30:5,6

神のことばはすべて純粋です。ですから、それを信じた者には神の祝福が与えられます。私たちはみことばを通して、神の救いを知りました。みことばによって神が愛であり、私たちひとりひとりを愛しておられることを知ったのです。

人のことばは、果たしてすべて純粋と言えるでしょうか。だれかに裏切られた経験はありませんか。だまされた、とか、悪口を言われたとか。人のことばは純粋なときももちろんあるのですが、ある場合、人はことばで裏切ってしまうものです。その裏切りでどれだけの人が苦しみ、j悲しんでいることでしょう。人は純粋さ、真実さを求めるものです。

みことばは付け足す必要はありません。それ自身ですべてなのですから。付け足すことによって、かえってその純粋さを損なってしまいます。みことばをそのまま、あるがままで受け入れることが大事であります。

みことばを受け入れたなら、ただそれを信じていればいいのです。だれに何を言われようと、みことばが絶対的に正しいのだ、と確信して歩みましょう。そんな生き方を主は喜んでくださいます。それから外れたときに、主は責められるのです。
  1. 2008/08/30(土) 18:02:04|
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うなじ

責められても、なお、うなじのこわい者は、
たちまち滅ぼされて、いやされることはない。

                          箴言29:1    

うなじのこわい者とは、頑固な人という意味です。頑固な人はたちまち滅ぼされるとあります。頑固というと頑固おやじをイメージしますが、少しニュアンスが違う気がします。頑固おやじは恐いけれど、人情にもろく、愛にあふれている、昔の父親像があります。

頑固とは正しいことに反抗する輩であります。責められたらすぐに食ってかかるとか、拒絶するとかして自分のあやまちを認めようとしないのです。罪を認めないなら、その罪は許されることはありません。そしてその人も、また被害を受けた人もいやされることはありません。

神のことばに対しても頑固な人があります。神を信じない人は神のことばを受け入れようとはしません。ことごとく神のことばに対して反駁するのです。そんな人に神は祝福は与えられないでしょう。むしろ、こころを肉のようにやわらかくして、決して固い石のようにならずに、受け入れることが必要です。神は肉のこころを与えると約束されました。滅ぼされるのを誰も望んでいないはずです。肉のような柔らかいこころになりましょう。
  1. 2008/08/29(金) 15:07:22|
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若獅子

悪者は追う者もないのに逃げる。
しかし、正しい人は若獅子のように
頼もしい。
  箴言28:1

逃げるのはなぜか、悪いことをしているからです。逃げるのは追いかけてくる人がいるからです。昔、逃亡者というテレビドラマがありました。リチャード・キンブルという医者が自分の妻を殺害したという疑いで、ジェラード警部に追われる物語です。

一話ずつが完結になっていて、農夫や作業員などいろいろな人に化けて逃げているのですが、いつも警部はかぎつけて、あとちょっとのところまで追い込むのです。しかし、そのたびにキンブルは逃亡してしまいます。

キンブルは無罪だったのですが、疑いが解けずに、自分で真犯人を探し、やがて片腕の男を見つけ解決することになります。ですから、悪者ではなかったのですが、世の人はやましいことがあると、そこからのがれようとします。

悪いことをしていなかったら、若獅子のように頼もしく生きることができます。若獅子というと、これはイエス・キリストを連想させます。イエスはユダの獅子と言われました。イエスこそ正しいお方、罪を犯したことのないお方です。ですから、悪と悪魔とに正々堂々と戦うことができたのです。決して逃げるようなことはされませんでした。
  1. 2008/08/28(木) 17:48:56|
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一歩一歩

ただまっすぐに前を見つめ、うしろを
振り返らないことです。
道から少しもそれないように注意深く、
確実に一歩一歩すすみなさい。
横道にそれてはいけません。
危険とわかったら、一目散に
引き返しなさい。
  箴言4:25-27

私は道です、と主イエスは語っておられます。道が幾重にもつながっていても、本当の道をあるかない限り目的地には到達できません。主の道は真理の道であり、いのちの道であります。この道をただまっすぐ、前を見つめて進んでいくならすばらしい祝福を得ることができます。

道は一歩一歩踏みしめて進んでいくものです。一足飛びに行きたくても、確実に一歩を地につけて行く事が必要です。横道にそれると迷います。迷ったら元に戻りなさい。もう一度引き返す勇気が必要です。頑なに迷った道を突き進んでいると、かならず滅びの罠がまっています。危険な道を避けるためにももう一度、主イエスの元に引き返しましょう。いのちの道ですから。安全です。そして安心してすすむことができます。ハレルヤ!
  1. 2008/08/27(水) 16:54:09|
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むちと杖

あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
  詩篇23:4

ムチは過ちや間違いを正してくれるもの、非を明らかにしてくれるものでう。つえは羊飼いにとっては羊を守る道具であります。敵が来た時にそれで、敵と戦い、追い払ったりするのです。主は私の羊飼いと、この詩篇23篇の初めには書かれています。

羊飼いなる神が私たちを正しく誤りない方向に導き、いろいろな誘惑や、迷いから守ってくださいます。ムチや、つえは聖書そのものと考えてもいいでしょう。聖書は一般にバイブルと呼ばれます。指針とか、方向を示す羅針盤とか解釈されます。そのとおりだと言えます。聖書が正しい生き方を教えます。救いの道を示してくれます。

聖書は喜びを与えてくれますが、あるときはこころに痛みをも与えることがあります。罪に対してシビアに説いているからです。うやむやにしてしまいたいのが人のこころ、でも聖書はそれをうやむやにはしてくれません。むちとつえはそうして、私たちを慰めてくれるのです。

  1. 2008/08/26(火) 17:31:16|
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すること、なすこと

そうした人は、神様がお望みになることを
何でも喜んで実践し、いつも、おきてのことを
考えては、どうしたらもっと神様に近づけるか
と思いめぐらします。
そのような人は、川の土手に植えられた木が、
毎年欠かさず甘い実をつけるのに似ています。
その葉は決して枯れず、することなすこと、
みな栄えます。
   詩篇1:2,3

主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人は幸いであります。そのような人が神の望まれることを喜んで実践するのです。聖書のことばを聞いて喜んで従うときに、神は祝福を与えられます。

そのような人は川の流れのそばに植えられた木のように、大きく成長し、実を豊かに結ぶようにしてくださるのです。川の水はたえず流れて、枯れることはありません。水は神の祝福です。神の祝福は絶えることはありません。そこにある限り木はずっと成長し続けるのです。

神は私たちをそのように生き生きとしたものとして、しかも実をいっぱい結ぶようにしてくださいます。そのためには流れのそばにいる必要があります。主のそばにいて、主のみことばを聞いて、それを実践するのです。あなたの歩みが祝福されますように。アーメン。
  1. 2008/08/25(月) 17:40:41|
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戸の外

ごらんなさい。わたしは戸の外で、
しきりにたたいています。その呼び
かけにこたえて戸を開ける人なら、
だれとでも、わたしは中に入って、
親しく語り合います。
  黙示録3:20

戸の外に立ってしきりにたたいているのは主イエスです。心の戸を今もイエスはたたいておられます。その音が聞こえたら戸を開けてほしいのです。主はその人の中に入って、親しく語りかけてくださいます。主は心の友となってくださるのです。

今はネットが中心になっていますが、ネットの友だちよりももっと深く、もっと大切な心の友として主は今も戸をたたき続けておられます。主は親しく語って、真の心のともになってくださいます。

今ある悩みや、つらさ、悲しみ、それは誰にも打ち明けられなかったとしても、主はそれらを全部受けとめてくださいます。「重荷を負って苦労している者は、わたしのところに来て休むがよい」と主は語っておられます。それがどんなに大きかろうが、そうでなかろうが、その重荷をとってくださるのです。戸をあけてください。
  1. 2008/08/24(日) 14:19:31|
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神の子羊

ご覧なさい。この方こそ、
世の人々の罪を取り除く
神の子羊だ。
    ヨハネ1:29

洗礼者ヨハネがイエスに対して言った言葉が「この方こそ、世の人々の罪を取り除く神の子羊である」でありました。イエスは神の子羊です。子羊は人々の罪の身代わりに殺されて、神にささげられました。犠牲となり、いけにえとされたのです。

主イエスも私たちの罪のための犠牲となって死んでいかれました。私たちは罪を犯す罪人です。どんなに潔癖な人でも免れることはできません。すべての人は罪の中に生まれていることを聖書は断言しているからです。私たちがそれを認めようと、認めなかろうと罪人であることに変わりはありません。

主は十字架にかかり死んでいかれましたが、十字架の上で「父よ。彼らを赦してやってください。彼らは何をしているのか知らないでいるのです。」と言い「すべては完了した。」と最後に叫んで息を引き取られました。どのような罪深い人でも、このイエスを信じ、罪を悔い改めるなら、その人の罪は赦されます。身代わりになってくださったからです。

ご覧なさい、とあります。主イエスの十字架のお姿をぜひ見て下さい。あなたのために主は苦しみにあってくださったのです。どうか、この救いを受け取ってください。

  1. 2008/08/23(土) 18:15:24|
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誇る者

神様は命じます。知恵のある者は、
知恵を見せびらかしてはいけない。
力ある者は力を、金持ちは冨を
誇ってはいけない。
見る者は、わたしをほんとうに
知っていること、また、わたしが
正義の主であって、その愛は
変わらないと知っていることを誇れ。
 エレミヤ9:23-24

人にあるもの、知恵や力、金などを誇ってはいけないとあります。私たちはついつい能力があることを自慢したり、誇りにしたりします。しかし、それはいつしか消えるものです。力も衰えてしまいます。それはずっとつづくものでないことを知らないといけません。

ここでは、神を知っていることを誇りとしなさいとあります。神は正義に満ちた神です。不正や悪を許されません。神は愛の神です。どのような罪深い人にも愛とあわれみをもって接してくださいます。神に対してそのような正しい知識を持つならばさいわいです。神を知っていることを誇りましょう。また、神に知られ、愛されていることを感謝しましょう。
  1. 2008/08/22(金) 17:12:23|
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外国にまで

国々の光となって、外国にまで
わたしの救いをもたらす。
   イザヤ49:6

イエス・キリストは世界の国々の光となって、外国までその救いをもたらすとあります。日本ではキリスト教というと外国の宗教といわれます。確かに日本から起きたものではありません。舞台はイスラエルであります。あの荒涼とした地で起きたことが、世界中に影響を与えています。

イエスは約2000年前にこの世に生まれ、30歳になってからイスラエルなどの地を歩きまわって、神の国のことを説いて歩いていかれました。病人に手をおいておいやしになったり、盲人や、耳や、口の不自由な人をいやされたりされました。さまざまな人たちがイエスによっていやされました。また、福音によって生まれ変わりました。

最後には十字架にかかって、人々の罪を背負って死んでいかれました。そればかりではありません。死んで、葬られて、何と三日目によみがえられたのです。そのことによって、この出来事が全世界に伝えられるようになりました。イエスの救いは一国だけのものではありません。あらゆる、全世界の国々のものです。この人による以外に救いはありません。イエスこそ全世界の救い主なのであります。
  1. 2008/08/21(木) 16:12:04|
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かたき

以後おまえと女はかたき同士、
おまえの子孫と女の子孫も同じだ。
おまえは彼のかかとにかみついて
傷を負わせるが、結局は彼に頭を
踏み砕かれてしまうのだ。
  創世記3:15

おまえとは、ヘビのこと、すなわちサタンを指します。サタンは目に見えませんが神の敵対者としてこの世を牛耳っています。神のご意思に対してはことごとく逆らい、神に従うものにも敵対しているのです。サタンの化身であるヘビに対して神は「あまえと女とはかたき同士だ」と語られました。女とは母をさすでしょうし、その子孫はまぎれもなくイエスを指しています。

サタンはイエスのかかとに噛み付き傷を負わせます。すなわちイエスを十字架にかけて死に至らせますが、イエスはサタンの頭を踏み砕かれるのです。つまり、死んだ後に復活されて永遠の命を人々に与えてくださいます。死に至らせるまではできても、それ以後、よみがえらせることはできません。逆にそれによってサタンの力を撃ち砕かれたのです。

サタンは今も生きています。そしてわれわれを悪に誘惑し、神から離れさせようと躍起になっていますが、サタンの武器はすでに撃ち砕かれていますので、なんら恐れることはありません。心から主に信頼して大胆にしたがっていけばいいのです。
  1. 2008/08/20(水) 16:12:48|
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大きな喜び

イスラエルの多くの人が
この子を信じようとしないで、
滅びるからです。この子によって
大きな喜びを受ける人も大ぜいいます。
こうして、多くの隠れた思いが
現わされるのです。
  ルカ2:34-35

この子を信じようとしないで滅びるとあります。この子とはイエス・キリストです。キリストが赤子のときにシメオンによって預言されたことばです。それは本当のことであります。主イエスを信じないで滅びることが事実なのです。信じるということは心の底から信じることです。イエスこそが、わが救い主と認めて信頼することであります。

そのように信じた人は大きな喜びを受けるのです。罪を背負った生き方は苦しいものです。人生は重い荷を背負って坂道を歩くようなものだ、といわれますが、その荷とは罪の荷物がほとんどです。それをイエスにあずけて生きるなら、もう荷物に苦しめられることはありません。生き生きと神とともに生きることができます。大きな喜び、大きな感謝をもって生きるのです。

さあ、あなたもこの大きな喜びをつかんでみませんか。神様の祝福を受けて生きていきましょう。
  1. 2008/08/19(火) 11:33:45|
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シメオン

主よ。今こそ私は安心して死ねます。
お約束どおり、この目でメシヤを見、
あなたが遣わされた救い主にお会い
したのですから。この方はすべての国を
照らす光、あなたの民イスラエルの光栄です。

                         ルカ2:29-32

シメオンというイスラエルの律法学者がいました。彼は高齢でした。律法学者として旧約聖書を学んでいるうちに、聖書の中心的なメッセージは救世主(メシヤ)、つまり神の御子の来臨の預言である、と確信したのです。実際にシメオンは救い主を自分の目で見るまでは死なないことを聖霊によって知らされていました。

そして、救い主イエスに出会ったのです。彼は今こそ安心して死ねます、と告白しています。多くの人は「安心して死ねます」とはとても言えないと思います。今死んだらえらいことだ、いっぱいやり残したことがある、不安でいっぱいだ、と死を受け入れることができないのではないでしょうか。

救い主を見て安心できたのです。聖書どおりに救い主が生まれたことを知って、しかも目の前で、この腕の中に救い主を抱きかかえている。彼はこれ以上望むことは何もありませんでした。救い主イエスはすべての国を照らす光であり、イスラエルの光栄となるお方です。神の国はこのイエスによって確立することを、彼は見たのです。わが人生もこのイエスによって確立すると、信仰の目で見てみませんか。そうしたら、安心して生きることができますし、安心していつでも召されることもできます。
  1. 2008/08/17(日) 14:29:02|
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神のもの

全地は神様のものです。
世界中のものがすべて神様の持ち物です。
このお方は、海を押しやり、
かわいた地をあらわにされました。
 詩篇24:1,2

全地は神様のものです。地球は青く、じつに美しいです。実際に宇宙に旅立って地球を見るなら誰でも感動することでしょう。そんな美しい地球にわれわれは住んでいるのです。それだけでも神の愛が伝わってきます。愛しているからこそ、最高の住みかを提供してくださっているといえます。

世界中の持ち物は神のものです。けれど地球に住む人類は、あらゆるものを自分の所有物であると主張しています。国の境にしても人間が勝手に決めて、お互いに所有権を主張しあっています。愚かです。そこから戦争に発展してお互いを滅ぼしあうのです。もっと神の前に謙虚であるべきです。

神は私たち一人一人を愛してくださっています。決して戦うことを望んではおられません。滅ぼしあうことを願ってはおられないのです。愚かなのは人間の方なのです。神が造られた地球を愛さないといけません。地球に住む人々を愛さなければなりません。神のみこころをもっと知るものとなりましょう。
  1. 2008/08/16(土) 13:22:13|
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大地

ああ神様。あなたのことばは、天にある、
びくともしない岩のようです。
あなたの真実は、あなたの手で
できた大地のように、
いつまでも存続します。
 詩篇119:89,90
  1. 2008/08/10(日) 15:20:05|
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集会

集会を休んだりする人たちに
ならってはいけません。
  ヘブル10:25

教会ではいつも日曜日に礼拝を持っています。聖日礼拝と呼んだり、主日礼拝と呼んだりします。毎週日曜日に礼拝をしますので、たまには休んだらといわれたりしますが、やはり日曜日になると、しかも礼拝時間が迫ってくるとそわそわとして落ち着かないものです。

礼拝を守ると言います。これは義務でも強勢でもありません。礼拝は何なのか、なぜ礼拝をするのかをしっかりわかっていれば、礼拝を守ることに苦痛はなくなります。礼拝は、神と出会うときです。生ける神に出会い、心から賛美や感謝を捧げることによって、神を喜ぶのです。礼拝を守ることによってたましいが生き生きと生かされます。

休むとたましいが元気を失ってしまいます。ですから休んでいる人たちにならわないようにする必要があります。明日は日曜日。ぜひ礼拝に出て、神から祝福をいただきましょう。
  1. 2008/08/09(土) 17:52:16|
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満たされる

聖霊に満たされ、
支配していただきなさい。
 エペソ5:18

聖霊は神の霊です。御霊とも表現します。御霊は愛、喜び、平和、寛容、善意、忠実、柔和、自制の実を結ぶとあります。聖霊に満たされると、愛に満たされます。神の愛が包むのです。愛があふれた人とともにいると幸せな思いになります。神の愛に満たされると、幸せな思いに満たされます。

自分は愛がない。愛に乏しいと思っている人でも、神はその人を愛の人につくり変えてくださいます。むしろ愛のない人ほど神の愛は豊かに注がれます。愛あるところに喜びがあります。愛あるところに平和があります。

聖霊に支配されなさい、とあります。支配されるには、すべてを信頼して、委ねるといいのです。平和の少ないこの世です。信頼したり、委ねたりと簡単にはできませんが、神は完全に信頼することができます。聖霊に満たされ、支配されるまでに満たされたいものです。


  1. 2008/08/07(木) 15:31:24|
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力を受ける

聖霊があなたがたに下る時、
あなたがたは大きな力を受ける。
 ローマ8:26

聖霊が下るとは、一人一人に聖霊が臨むことです。聖霊とは神の霊です。神は霊ですから目で見ることはできません。目に見えないけれども神は霊としてどこででも存在されます。聖霊が一人一人に臨んで、その人は大きな力を受けることができます。

力とは、罪に打ち勝つ力です。人はだれでも罪を持っています。罪によって人は神から離れた生き方をしているのです。罪は人を罪の奴隷へと導いていきます。それを断ち切るには、聖霊の力が必要です。聖霊はもう罪を犯せないように人をつくり変えていきます。

さらに力は愛となって、人を愛するようになります。今までは人を愛することができなかった人でも聖霊に満たされることによって、人を愛するようになります。また、神を愛するようになります。愛することが幸いといえるように、人生観が変わってくるのです。聖霊があなたの上に注がれますように!
  1. 2008/08/06(水) 15:18:59|
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どのように祈る

私たちは、何を、どのように
祈ったらよいかさえ、わからないのですが、
聖霊は、言葉に表せないほどの
切実な感情をこめて、
祈ってくださるのです。
  ローマ8:26

私たちは、何をどのように祈ったらよいかさえわからないときがあります。祈りは特別な宗教をしている人だけがしていることではありません。どんな人でも、目に見えない偉大な力にすがろうとします。そのときには手を合わします。必死に声を出して願いをします。それが祈りです。

祈りは誰でもができる行為です。たとい病床にあって身動きできなくても神に祈ることはできます。たとい体の自由を奪われて何もできない状況であっても、祈ることはできます。死を宣告されたとしても死の前に祈ることはできます。

何をどのように祈るか。これはわかっているようで、いざとなるとわからない。どのように祈ればいいおか。何を祈ればいいのか、とわからなくなります。そんなときに、聖霊は祈りができるように切実な感情をもって祈りへと導いてくださいます。切なる感情とは、私たちの深刻な状態でも、私たちに代わって切実にお祈りをしてくださるということです。

祈れないときでも、聖霊が祈りへと導いてくださいます。なんと幸いでしょうか。
  1. 2008/08/05(火) 15:39:47|
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助け主

父に、もう一人の助け主を送って
いただけるよう、お願いしましょう。
その助け主は、絶対にあなたがたを
離れません。その方とは聖霊、すなわち、
すべての真理へと導いてくださる
御霊のことです。
   ヨハネ14:16-17

助け主を送っていただくとあります。スーパーマンやウルトラマンなどヒーローが窮地にある人を助けに突然、登場しますが、よくタイミングよく出てくるものだと感心したりします。あれはドラマですから、そうなるのでしょうが、私たちの生活の中で困ったときに、誰か助けてくれないものか、と天を仰いで思うときがあります。

実は助け主は実際に私たちの生活の中で助けてくださいます。それは聖霊となって目には見えませんが、いつもともにいて私たちを助けてくださるのです。その聖霊は、私たちが真理にいたるように導いてくださるのであります。困ったできごとを通して、それを解決し、その結果、これが真理なのだと教えてくださるのです。真理の御霊である聖霊に導かれて進んで行きたいものです。

  1. 2008/08/04(月) 16:09:50|
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ゆだねなさい

自分のしようとすることをみな、
神にゆだねなさい。
信頼する者を、神は助けてくださいます。
 詩篇37:5

自分のしようとしていることは、果たしてみこころなのか、このまま続けていいのか、と迷いや恐れが何をするにもやってきます。そんなときに、神はそのしようとしていることを委ねるように語っておられます。恐れや不安の代わりに、主への信頼が与えられるからです。

友や知り合いがあったとしても、すべてにおいて助けてくれるわけではありません。気持ちはあったとしても能力的に無理な場合があるからです。また、何でもかんでも友に打ち明けることはできないこともあります。

しかし、神は私たちのことをすべて知っておられますから、私たちが最後までやり続けられるように、折に触れ、時に応じて助けてくださいます。何でもかんでも、主にゆだねていいのです。最も最愛なる友、イエス・キリストに委ねて行きましょう。神の祝福を祈ります。

  1. 2008/08/03(日) 16:57:56|
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主をほめたたえよ

主をほめたたえよ。日よ。月よ。
主をほめたたえよ。
すべての輝く星よ。
  詩篇148:3

主をほめたたえよ。聖書にはこの言葉が何べんも出てきます。主とは主イエスのことです。教会の礼拝や、特別集会などでは、必ず主をほめたたえる賛美の時間があります。楽器や、聖歌隊などを編成して大がかりな賛美がささげられるのです。

古い聖歌や賛美歌も歌われますが、聖書の言葉を使ったコーラスなども歌われます。何度も同じメロディーで歌っていくと霊的な高まりを覚えます。賛美は心と声、楽器との一致によって巧みに高く捧げられていくのです。ぜひ一度、教会の礼拝に出ていっしょに賛美のときを過ごされることをお勧めします。最高のときです。

この聖書の箇所は、日よ。月よ。輝く星よ。主をほめたたえよ、と言っています。造られたものが造り主をたたえるのです。太陽は輝くことで、主をほめたたえているでしょう。月も星も神を心からほめたたえています。私たちも造り主なるお方を、この口で思い切りほめたたえようと思います。ハレルヤ!主をほめよ。アァメン。
  1. 2008/08/02(土) 16:49:08|
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必要

主は私の羊飼いですから、
必要なものはみな与えてくださいます。
  詩篇23:1

主は私たちの羊飼いです。私たちには乏しいことがありません。羊飼いは羊のことを四六時中看ていなければなりません。そして何か不足があれば、羊飼いは、それを補ってあげなければbならないのです。

必要なものが私たちにはあります。本当に必要なものをちゃんと満たしてくれるとは、なんと幸いなことでしょう。神がいつも私たちのことを、こころにとめて、必要なものを、必要な時に満たしてくれることを知っているなら、私たちは安心して生きることができます。

今の世は、安心できることがあまりにも少ないです。安全に生きることはむつかしい時代です。ですからこそ、主を心から信頼して歩んで行きたいと思います。
  1. 2008/08/01(金) 14:49:29|
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