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世の光

あなたがたは世の光です。丘の上にある町は、
夜になると灯がともり、だれにもよく見えるように
なります。あなたがたの光を隠してはいけません。
すべての人のために輝かせなさい。だれにも
見えるように、あなたがたの良い行いを輝かせ
なさい。そうすれば、人々がそれを見て、天に
おられるあなたがたの父を、ほめたたえるように
なるのです。
    マタイ5:14~16

あなたがたは世の光です。光は暗いときに威力を発揮します。世とは私たちの住んでいる世界です。この世界は暗闇のように暗くなっています。世が暗くなればなるほど、闇が深くなればなるほど、光は輝きをまします。

丘の上にある町に光が灯っていれば、その存在は一目瞭然です。真白い布に一点のシミがあれば、それはよく目立ってしまいます。キリストを信じる者は闇夜を照らす光です。光の役目は正しい方向に導くことです。誤った道、滅びの道を歩いているならば、その人を正しく光で導いてあげる必要があります。光はまた、明るさとぬくもりを与えます。人々に希望を与え、生きる喜びを与えます。世の光となってますます輝きたいものです。
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  1. 2008/07/31(木) 16:06:30|
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わたしの戒め

わたしを愛するなら、わたしの戒めを
守りなさい。
   ヨハネ14:15

愛する人のためであれば、その人を喜ばせようとします。その人の思い、考え、言いつけを喜んで守ろうとするはずです。

最近、日本の家族が壊れかけているように思えて仕方がありません。よくニュースになるのが、子どもが親を殺害したり、刃物で傷つけたりする事件です。また、親に叱られたからとか、親が自分の悩みを聞いてくれなかったから、世間をあっと言わせるような事件を起こして親を困らせようとした、と供述しているのを見て、何と言うことかとあきれてしまいます。

家族の中に愛がなくなってしまっているのです。本来は親を喜ばせようと子どもはするはずです。そのような考えはなくなったのでしょうか。親が子どもを愛することが基本です。子どもも親を尊敬すること、親を信頼していつもよい関係が保たれるようにする必要があります。

神は私たちを愛しておられます。そして、私たちも神を愛します。愛しているから、神の戒めを喜んで守るのです。愛があれば、守ることが苦痛にはなりません。愛も信頼も失われてしまうと、守ることに大変な苦痛を覚えます。私たちは愛なしにはとても生きていくことはむつかしいものです。神の愛を受け止めて人々を愛していきましょう。
  1. 2008/07/30(水) 17:27:00|
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おだやかに

神に選ばれて、この新しいいのちを与えられた
あなたがたは、神の深い愛と思いやりに
包まれているのですから、他の人に対して
情け深く、やさしく親切でなければなりません。
謙遜な態度で、どんな時にも、おだやかに
忍耐強く行動してほしいものです。
 コロサイ3:12,13

神の愛を受けた人は、その愛をもって他の人を愛していかなければなりません。太陽の光を浴びたら、その光を他のものにも輝かすように、私たちは自分だけのものとして愛や恵みを独り占めしてはいけないのです。

神に愛されている人は他の人を愛することができます。その愛は情け深い愛です。イエス様が情け深い方であったように、私たちも情け深く愛していくことができるようになります。親切な心で愛します。それはどこにおいても、どんな場合でも必要なことです。知らない地で親切にされたら心に深く残ります。キリストの愛は親切な愛です。

謙遜な態度で他を自分よりも尊いものとして敬い、穏やかにして忍耐強く行動できるようになります。それは主がそのように歩まれたからです。主と同じように私たちは生きることができるのです。無理してというよりも、ごく自然にできるようになります。ハレルヤ。
  1. 2008/07/29(火) 17:35:57|
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兄弟を愛す

ですから、神を愛する者は、
兄弟をも愛すべきです。これは、
神が命じておられることです。 
  Ⅰヨハネ4:21

聖書はお互いのことを兄弟姉妹と呼んでいます。教会でも○○兄弟、○△姉妹と呼び合う場合があります。それは肉親の兄弟でなくても、そのように呼び合うのです。神は私たちの父なる神です。ですから、私たちは神の子です。子供同士は兄弟姉妹なのです。

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。神は愛するけれど、兄弟は愛せない、というのであれば本当に神を愛していると言えません。兄弟姉妹を愛しますといいながら、あの兄弟は生意気だから嫌い、とかあの姉妹は考えが違うのでいやだ、というようでは愛しているとはとてもいえません。

どんな人でも条件無しで愛せるようにならないといけません。神が私たちを無条件で愛してくださいました。今でも条件無しで愛してくださっています。神を愛している人は、目に見える兄弟を心から愛していけるようになりたいものです。兄弟愛に愛を加えなさいと聖書は勧めています。
  1. 2008/07/28(月) 17:45:59|
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喜んで従う

もし私たちが本当に神を愛しているなら、
その命令には喜んで従うはずです。
  2ヨハネ6節

愛する人の命令であれば喜んで聞くだろうし、従うのは自然です。愛さない人の命令は喜んで聞かないし、従うのに抵抗があります。愛する人のためだったら何でもしてあげようと思うからです。神に対して本当に愛しているなら、喜んで従うことができます。

父の命令に兄は「行きます」と言って結局は行きませんでした。弟は父の命令に「いやです」と言いましたが、後で悪いことをしたと思って、心を変えて行きました。さてどちらが父の命令に従ったのでしょうか。答えは弟のほうですね。

口先では調子よく「行きます」と言っても、実際は行かなかったら父を裏切ることになります。弟は口で父を悲しませたけれども、それを悔い改めて父に従いました。実質、実際がどうであるかが問われています。喜んで従うのは、愛しているからです。調子だけ合わせて従わないのは、愛していないか、偽りの心があるからです。本当に愛して、心から従う人になりましょう。父なる神は喜んで従う人を愛してくださいます。
  1. 2008/07/27(日) 14:30:31|
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わたしを愛する人

わたしに従い、わたしの戒めを守る人は、
わたしを愛する人です。わたしを愛する人を、
父は愛してくださいます。
わたしもまたその人を愛し、
わたし自身を現します。
  ヨハネ14:21

わたしに従う人はわたしを愛する人です。わたしとは主イエスのことです。主イエスに従うことが主を愛することであります。わたしの戒めを守る人は、わたしを愛する人です。主の戒め、聖書の言葉を守る人は、主を愛している人です。愛する人の言葉や、思いを大切にしているからです。

父はわたしを愛する人を愛してくださいます。父とは神のことです。神は主イエスを愛する人を愛してくださいます。父と主イエスとは一つだからです。一つとは思いにおいて一つということです。それだけ深い間柄であると言えます。一体ということばで表現されます。主を愛します、という人を神は愛され、そのような人に主はご自身を現されます。ご自身を現すとは、その人に生きておられる主が出会ってくださるということです。

私たちの祈りにおいて、主はご自身を現されるでしょう。私たちの賛美や礼拝において主はご自身を明らかに現してくださるでしょう。そこには祝福があります。生きる喜びがあります。ですから、いつも主イエスを愛しましょう。心を尽くして主に従いましょう。
  1. 2008/07/26(土) 15:38:20|
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聖書は

全体が神の霊感によって書かれた聖書は、
何が真理であり、何が悪であるかを
よく教えてくれます。また、私たちの生活を
まっすぐにし、正しいことを行なう力を
与えてくれます。
  Ⅱテモテ3:16-17

聖書はバイブルといわれますが、まさしく羅針盤のような働きがあります。生活を正しく導いてくれるのです。何が真理であるか、何が悪であるのかをしっかりと教えてくれます。わからなくなったら、まず聖書に聞いてみればいいのです。

なぜなら、聖書はすべて神の霊感によって書かれているからです。インスピレーションという神の霊感が1冊の聖書を書かせたのであります。人は自分の判断で善悪を判断しますが、それが正しい場合もあれば、正しくない場合もあります。聖書は全般的に善悪を教えます。聖書に従えば間違うことがないといって良いでしょう。

私たちの生活をまっすぐにし、正しく生きるための力を与えてくれます。聖書は実に妙なる書であります。あなたの生活も新たにされますようにお祈りします。
  1. 2008/07/25(金) 17:17:53|
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懐中電燈

神様のおことばは、つまずかないように
道を照らしてくれる懐中電燈です。
 詩篇119:105

都会では夜も昼のうに明るくて、どこでも歩くことができます。しかし、田舎は夜になると真っ暗になります。田舎には街灯もほとんどなくて、歩くのも危険です。ですから足元を照らしてくれる明かりが必要になるのです。

小さい頃は、ロウソクを入れたガラスの箱を持って、道を照らして歩きました。ロウソクはゆらゆらとして燃えていますが、明かりとしては弱いです。肝心の足元がはっきりしない場合もあります。それでもないよりはましです。松明もありますが、長くつけることはできません。

今だったら、懐中電燈があります。結構遠くまで照らしてくれるし、明るさが違います。風が吹いても大丈夫です。神の言葉は懐中電燈のようです。足元を照らしてくれます。危険な所に行ったりしても、しっかり照らしてくれるので安心です。間違った方向に行くこともありません。

明かりがないと前に進めないように、私たちの人生も、闇夜にいてどちらに行くべきか迷うことがあるものです。しかも迷うことばかり。そんな時にみ言葉によって進むべき道を示していただきます。迷いから解放されます。み言葉は私たちの歩む道の光となってくれます。

  1. 2008/07/24(木) 16:37:28|
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きよい者

あなたの真理の言葉を教え、
彼らを純粋な、きよい者としてください。 
  ヨハネ17:17

清めのために塩をまく習慣が日本にはあります。大相撲名古屋場所がいま行なわれています。朝青龍が欠場したので少し盛り上がらない場所となりましたが、白鵬の全勝がかかる点では期待がもたれます。相撲取りが土俵で対戦する前に塩をまいてから構えます。あれは清めの意味があるからです。塩は腐敗を防ぐ役目がありますし、ものを清める役目があります。

み言葉は塩のような働きがあります。み言葉によって、それを教えられることによって人が変えられていくのです。心が変わり、悪の道からいのちの道へと導かれていきます。罪を犯すことが、以前は平気でできていたのに、み言葉を知ることによって、もうそれができなくなってしまいます。それだけみ言葉には力があります。純粋な者とされ、きよい者とされる。それがみ言葉の働きです。私たちは神の言葉によって新しく変えられていきます。新生はみ言葉によってなされるのです。アァメン。
  1. 2008/07/23(水) 16:19:13|
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優勝

競走する場合、優勝者は一人だけです。
ですから、あなたがたも、
優勝するように走りなさい。
 Ⅰコリント9:24

もうすぐ北京オリンピックが始まります。オリンピックで競技する人はメダルを目指して走り、飛んで、泳いでとさまざまな競技で力を競います。メダルでも一番輝く金メダルを目指して走るのです。日本の金メダルは何個でしょうか?という予想のアンケートがなされていますが、果たして今年は何個取れるでしょうか。

金メダルは優勝者のみに与えられます。優勝するにはそれなりの訓練や、鍛錬をし、節制したりしながらベストコンディションへと持っていきます。それでも金を取るのはむつかしいのです。ライバルも同じようにしているからです。

優勝するように走りなさい。これはオリンピックへの応援ではありません。キリストの信仰を持ったなら、レースにそれぞれついた状態です。そして一人一人が自分のレースを最後まで一所懸命に走りぬいて、栄冠をいただくのです。途中棄権はありません。最後まで自分の競争をまっとうするのみです。そのとき、それぞれに優勝者としての金メダルが与えられます。天国に入って、主とともに最高の喜び、栄誉を得ることができます。

みんなが競技者ですが、みんなそれぞれに自分のレースを進んでいきます。訓練、鍛錬、節制をしながらもゴールである天国を目指して進みます。みんなが最後のテープを切ることができますように。
  1. 2008/07/22(火) 17:27:20|
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心に働きかけて

深い尊敬の思いをこめて神様に従い、
神様をお喜ばせできないことからは手を引きなさい。
神様は人の心に働きかけて、
従おうとする思いを起こさせ、
神様が望まれる行いができるよう、
助けてくださるのです。
  ピリピ2:13

神は人の心に働きかけて、神に従おうとする思いを起こさせてくださいます。自分の意思で信じるように思いますが、そのときにも、神は私たちの心に働きかけておられるのです。ということは、まだ信じていない人にも働きかけてくださると言うことです。それは大いなる希望でもあります。

この人はとてもではないが信じないだろう、と自分で勝手に思い込んで望みを持たない場合があります。しかし、どのような人にも神は働きかけておられます。ちょっとだけその人が心を開けばすばらしい信仰の世界が開かれて行くのです。そのようになるように、私たちは神に願い、祈る必要があります。そのことをとりなしと呼びますが、特にクリスチャンはとりなしの祈りを神にささげ、神が働きかけてくださるように期待するのです。

その人が神を信じ、神ののぞまれる行いができるように助けてくださるように祈っていきたいです。信じて進みましょう。
  1. 2008/07/21(月) 16:39:12|
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この一事

愛するみなさん。私は、まだその目標に達してはいません。ただこの一事に、全力を注いでいます。
すなわち、過去に執着せず、前にあるものを望み見、
ゴールに到着してほうびを得るために、
一生懸命努力しているのです。
 ピリピ3:13

この一事に全力を注いでいます。この一事とは、過去に執着しないことです。過去に執着していいことはありません。後悔が残るだけです。もちろん、過去があって現在があるのですが、過去に捕らわれると前に進めなくなってしまいます。私たちは過去に縛られてはいけないのです。

前にあるものを望み見ます。過去に目を向けるのではなく、明日に、すなわち未来に目を向けることが大切です。過ぎ去った日々は帰ってはきません。これからやってくる日をどのようにして過ごすかが大事です。もし、過去に悔いが残っているのでしたら、これからそれをプラスに転じるようにすればいいです。明日がすばらしく開かれるように、今を精いっぱい生きれるようにしましょう。

ゴールを目指して。目標をしっかり持って、今のときを精いっぱい努力すれば、必ず良い方向に導かれるはずです。主もともにいて導いてくださいます。絶大な神の祝福がありますように。
  1. 2008/07/20(日) 17:58:19|
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喜ばれる

信仰がなければ、神様に喜ばれる
ことはできません。
  ヘブル11:6

 神様を喜ばせることが出来るのは、私たちの信仰です。しかも生きた信仰が大事です。信仰がなければ神は喜ばれません。100人のリーダーが、あるとき部下の病気で心を痛めていました。彼は百人の兵隊を率いる百人隊長でした。部下は瀕死の状態で一刻を争っていました。

 そのとき近くにイエスが来られていることを知った隊長は、さっそく知り合いの人に頼んで、イエスに来てくれるように願いました。彼らの必死な様子と、隊長への尊敬する気持ちが通じたのか、イエスは彼らについて行かれました。

もう少しという所にきたとき、隊長は別の使いを送り、「私の家にあなたを入れる資格はない」と言って家に入ることを拒んだのです。そのときさらに、「ただお言葉をください。そうすれば、部下はいやされます。」と断言しました。イエスの言葉を求めたのです。

軍隊は「行け」「来い」「これをせよ」と命令で動きます。同じように自分にも言葉を与えていただけば、そうなるはずだ、と釈明しました。イエスは彼の信仰に感激されて、あなたのような信仰はイスラエルの中で見たことがない、と語られました。その後、使いが帰ってみると、瀕死の部下はいやされて元気になっていました。み言葉がいやしのわざを行なったのです。信仰は告白することによって救われます。この信仰が神を喜ばせるのです。アーメン。
  1. 2008/07/19(土) 17:30:56|
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信仰によって

神の前に正しいと認められた人たちは、
信仰によって生きなければなりません。 
 ヘブル10:38

神に正しいと認められた人は、その行いによってではありません。ある人は良い行いをすれば、神は正しいと認めてくれると思っています。もちろん正しい行いは必要です。悪い行いはしてよくないとだれだって思うでしょう。良い行い、それ自体は大いに実行すべきであります。

ただ、良い行いをしたからと言って、神はそれを正しいとされません。義とはされないのです。それではどうすればいいのでしょうか。神は私たちの行いよりも、私たちの心をご覧になります。私たちの心が邪心で満ちているなら、どれだけ良いことを言ったり、またしたとしてもそれを義としてくださらないのです。

神が私たちを正しいと認めてくださるのは、私たちの信仰であります。神を信じる心をしっかり持っているかどうかをご覧になるのです。faithと英語では言いますが、忠実と訳されます。信仰とは神に忠実になることです。素直な心でしたがうのであります。この信仰があれば、神は正しいとしてくださいます。そうして、さらに良いことを励めばいいのです。
  1. 2008/07/18(金) 15:21:01|
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だれでも

だれでも、クリスチャンになると、内側が全く
新しくされます。もはや今までと同じ人間では
ありません。新しい人生が始まったのです。
2コリント5:17

だれでも新しくされます。ほんとかな?と懐疑的になる人もあるでしょう。私も最初はそうでした。絶対だまされないぞ、とこころをガードしたものです。しかし、それも無駄な抵抗だとわかりました。本当は新しくなりたい、新しい人生を送りたいと思って、求めているのに、いざとなるとガードしてることは矛盾だからです。

もはや今までと同じ人間ではありません。多くの人は今の自分を認めようとはしません。自分が好きであれば、求めることもいらないのですが、認められないから、別な自分を求めようとします。求めることはいいことです。しかし、なかなか新しい自分に出会うことがないのです。

クリスチャンになる、とは主イエスを心から信じて従うことです。罪深いじぶんから離れて、新しい神に喜ばれる生き方をすることです。本当に新しくなるにはクリスチャンになることです。
  1. 2008/07/17(木) 16:25:31|
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あふれるほどに

しかし、わたしが来たのは、いのちを、
あふれるほど豊かに与えるためです。
 ヨハネ10:10


 あふれるほどのいのちを与えるために主は来られました。いのちがあふれるところは、潤いのあるところ、すなわち水があるところです。神の国はいける水が流れています。この世には残念ながら、このような潤い、いける水が流れていません。

 ですから、人々は疲れてしまうのです。砂漠の中で、からからの状態で水を求めても得られないように、なかなか水にありつけないで渇ききってしまっている人々。主はいのちを豊かに、あふれるほどに満たしてくださいます。

 渇いている者はわたしのところに来て飲むが良い、と主は言っておられます。オアシスとして主は私たちに命の水、いける水を無償で提供しておられるのです。何も遠慮はいりません。ただ求めればいいだけです。主はあふれるほど豊かに与えてくださいます。
  1. 2008/07/16(水) 17:45:06|
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いのちがある

そういうわけで、神の子を信じる人には、いのちがあり、
信じない人にはないのです。すでに神の子を信じている
あなたがたにこのように書き送るのは、あなたがたには
永遠のいのちがあることを自覚させたいからです。
 Ⅰヨハネ5:11~13


神の子を信じる人にはいのちがあるが、信じない人にはいのちがないと書かれています。このいのちは霊的ないのちです。だれでもこの世に生を受ければいのちはありますが、生まれたままの肉のいのちはあっても、霊のいのちがなければいけないことを主イエスは語っておられます。

この世のいのちは死によって終わることをみんな知っています。霊的ないのちは、たといこの世のいのちを失っても生きています。霊は永遠に生きることができるからです。「私を信じる者はたとい死んでも生きる」と主は言っておられます。永遠のいのちを与えられているからです。

信じると信じないではそれほど結果が違ってきます。イエスを神の子と信じるならいのちがあり、信じないならいのちはありません。これほどはっきりとしたメッセージはないのではないでしょうか。信じる者は祝福であり、幸いであります。
  1. 2008/07/15(火) 17:29:08|
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代価

この神の子は、自分の血という代価を払って
私たちの自由を買い取ってくださり、
すべての罪を赦してくださったのです。
 コロサイ1:14


買い取ることをあがなうと言います。神の子であるイエスは、自分の血を代価として私たちの自由をあがなってくださいました。自由とは罪によるさばき、のろいなどからの自由です。罪を犯す者は罪の奴隷である、と主は話されました。

罪は最初は小さなものであっても、だんだんと雪だるまのように膨れ上がり、最後は自分でもどうしようもなく制御のきかないものになってしまいます。こんなはずではという状態になって、初めて気づくことも多いです。奴隷ですからそこから抜けられなくなるのです。

主は私たちをそのような不自由な状態から解放するために、ご自身の血、すなわち命をかけて救い出してくださったのです。血とは十字架での死を意味しています。十字架の代価があって、自由にされたのです。どうぞ罪から解放されてください。自由になりましょう。
  1. 2008/07/14(月) 17:10:14|
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ほんとうのいのち

キリストが私のうちに生きておられるのです。
私のためにご自身をささげてくださった
神の子を信じた結果、今、私のうちには、
ほんとうのいのちが与えられています。
 ガラテヤ2:20


人を生かすものは霊であります。こころが生き生きとしているなら、仮に物がなくともその人は喜んで生きることができます。逆に物にあふれていても、こころが生きていなければその人は悲しみや失望感に満たされるでしょう。

人は霊的な存在です。最近、スピリチャル・ブームという現象があるそうです。特に会社の社長や、責任ある立場、リーダー達がこれからどうやっていけばいいか、迷うときに霊的な能力のある人に祈ってもらったり、指示を仰ぐというのです。しかし、それでも完全ではありません。

キリストが私のうちに生きておられるという実感があれば、生き方そのものが変わってきます。他の誰でもない、イエス・キリストにこれからの歩みを委ねることができるからです。これぞ、ほんとうのいのち、私は生きているとこころから実感することができるのです。

あなたもどうぞ、主イエス・キリストをこころの中に迎え入れてください。神の恵みの中を歩んで下さい。祝福がどうぞ、ありますように。
  1. 2008/07/13(日) 17:49:00|
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戸の外で

ごらんなさい。わたしは戸の外で、しきりに
たたいています。その呼びかけにこたえて
戸を開ける人なら、だれとでも、
わたしは中に入って、親しく語り合います。
 黙示録3:20


戸を外からしきりにたたいている人がいます。それはイエス・キリストです。あなたのこころの戸を今もしきりにたたいておられるのです。その呼びかけに応えて、戸を開けるなら、すばらしいことがあります。

今の時代は、戸をたたく人があってもうかつに開けてはいけない、と警戒されます。どんな人が入ってくるかわからないからです。招かざる客であれば大変です。特に女性はしっかりと戸締りしないと不安です。

ただ、あなたのこころの戸をたたかれる主は、あなたとよき交わり、団欒のときを持ちたいと願っておられます。くつろぐひとときといえば、お茶のとき、食事のときでしょう。もし主の呼びかけに応じて戸を開くなら、主があなたとともに食事をともにしてくださいます。実にスウィートな時間となります。平安、喜び、感謝な思いに満たされるでしょう。

主は私たちを愛しておられます。そして私たちが幸せに生きることを求めておられるのです。何も心配しないで主にすべてを委ねて行きましょう。主はベストフレンドです。
 
  1. 2008/07/12(土) 17:44:06|
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生まれなおす

「そうですか。でもよく言っておきますが、
あなたはもう一度生まれ直さなければ、
絶対に神の国へは入れません。」 
ヨハネ3:3


 神の国に入るには、もう一度生まれ直す必要があります。それはもう一度母の胎内に入れというのではありません。実際にそんなことは不可能です。神の国に入るには水と霊によって生まれ変わることができると主イエスは語っておられます。

 水とは洗礼です。神のみ前において罪を示されたならば、罪を悔い改めて、その悔い改めのしるしとして洗礼を受けるのです。全身を水の中に浸し込むのです。それは罪に死んだ者が、葬られることを意味します。そうしてもう一度水から引き上げられるのです。

 霊によって生まれ変わることは、聖霊に満たされることであります。神は霊なるお方です。神の霊に満たされて生きるようになることが大事です。聖霊に満たされると人は変わります。神に生きる喜びを体験できるようになります。

 水と霊によって生まれ直すことによてt、神の国に入ることができます。神の国はすばらしい国です。求めるなら誰でもが入ることができます。恵みにあずかりましょう。
  1. 2008/07/11(金) 16:32:10|
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神様からの贈り物

あなたがたは、神様の寛容さのゆえに、
キリストを信じることによって救われたのです。
しかも、そのキリストを信じることすらも、
あなたがたから自発的に出たことではありません。
それもまた、神様からの贈り物なのです。
 エペソ2:8


 神は私たちの罪を赦してくださっています。それは私たちが立派な行いをしたからではありません。むしろ、神が寛容なお方だからであります。愛は寛容である、とあります。それもとことん寛容な愛で愛してくださっています。

 イエス・キリストを信じて救われました、という人も、実は自分から信じた、そして救われたというのではなく、信じることは自発的というより、神の賜物として与えられたものだというのです。贈り物、プレゼントとして救いをいただきました、というのが正解であります。

 ということは、どんな悪に染まった人であろうと、何の功績のない人であろうと関係なく神は私たちを救いに入れてくださるのです。夏のお中元も嬉しいですが、それよりももっと嬉しいのが神の贈り物である救いであります。どうぞ、この贈り物を受け取ってください。
  1. 2008/07/10(木) 16:51:03|
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特権

しかし、受け入れた人はみな、この方から
神の子どもとなる特権をいただきました。
それにはただ、この方が救ってくださると
信じればよかったのです。
 ヨハネ1:12


 特権が与えられるとあります。神の子どもとしても特権です。子どもは自分の意思で生まれることはできません。こんな家に生まれたくなかったといってもどうしょうもないことです。しかし、神の子どもになるには自分のしっかりとした意思が必要になります。それは自分のこころで信じて、自分の口で告白するからです。その人の思い、意思が尊重されます。

 神の子どもとなる特権。それは誰でもが与えられる特権です。このお方、イエス・キリストが自分の罪を救ってくださることをかたく信じればよいからです。信じることは誰でもできることです。しかし、誰でもが信じるあwけではありません。主イエスを信じる人はさいわいです。そして神の子どもとされる人はさいわいです。

 神の子どもは、神の祝福を受けることができます。神の恵みを受けることができます。信じる人に特権は与えられます。どうぞ、信じる人となりましょう。
  1. 2008/07/09(水) 17:12:34|
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父のところに行けない

「いいですか。わたしが道です。
そして真理でもあり、いのちでもあります。
わたしを通らなければ、だれ一人、
父のところへは行けません。」
 ヨハネ14:6


 ある人がキリスト教は教えではない、道なのだと説いて、キリスト道が正しい表現と主張されました。確かに教えだけでしたら、世の偉い人たちが数々の教えを説いておられます。キリストは道です、と語っておられます。車でも、人でも道を通って目的地に到達します。キリストに至る道。それはキリスト御自身を受け入れることによって進むことができます。

 道を極めるのは道である主イエスを信じることから始まります。わたしは真理なのです、と次に語っておられます。真理とは絶対的な正しさ、変わることのない真実がなければなりません。言葉や行動において普遍性を備えておられるイエスです。それを自分で証明されたのです。聖書を信じて読むときに主イエスの語られたことが嘘偽りでないとわかってくるのです。

 わたしはいのちです、と語っておられます。このお方とともにいるときに、勇気がわいてきます。わくわくとした思いに満たされます。平安な気持ちになることができます。「わたしが来たのはいのちを得させ、しかもゆたかに得させるためです」と主イエスは語っておられます。

 このイエスに信頼することにより、私たちは神のみもとに行くことができます。父のところに行く方法はイエスをこころから信ずることです。
  1. 2008/07/08(火) 16:07:55|
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福音

私はまず第一に、かつて自分も知らされた、
次のことを伝えました。すなわち、キリストは
聖書に記されているとおり、私たちの罪のために
死なれ、葬られたこと、そして預言者たちの
予告どおりに、三日目に墓の中から
復活されたことです。
 Ⅰコリント15:3


 イエス・キリストの福音は、死と葬りと復活です。キリストが私たちの罪のために身代わりとなって、十字架にかかり死んでくださいました。そしてすぐに葬られましたが、三日目には、その墓から生き返ってくださったのです。これはすべて歴史的事実であります。

 死と葬りと復活があなたと深い関係があることを、どうぞ知ってください。もしあなたに罪がないというのなら、この死と葬りと復活は無関係です。罪があるというのであれば、大いにあなたとかかわりがあります。ですからこの福音を受け入れて、真に罪から救われて、永遠のいのちを受けていただきたいのです。

 このチャンスはいつまでもあるのではありません。今は恵みの時ですので、信じるなら福音によって救われます。恵みの時が終われば、もう救いの幕は下ろされてしまいます。そしてその時が近づいているのです。信じましょう。主イエス・キリストの福音を。そして救われましょう!
  1. 2008/07/07(月) 19:57:28|
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大きな愛

しかし、私たちがまだ罪人であった時に、
神はキリストを遣わしてくださいました。
そのキリストが私たちのために死んだことにより、
神は私たちに、大きな愛を示してくださったのです。

ローマ5:8
 


 私たちが罪人であったとき。私たちが罪人であることを知らないとき、あるいは認めなかったときと考えられます。私たちは自分の姿を真に理解していないものです。誰でも生まれながらの罪人として生まれて来ました。それを認める人は少ないです。認めたときから、罪人のレッテルは取り除かれます。

 どうしてでしょう。神がイエスを身代わりに、十字架において罪の処罰をされたからです。イエスの十字架によって、誰もが罪から救われ、もはや罪の罰を受けなくてよくなったのです。それは神の大きな愛によります。神の愛は私たちが考えているよりも偉大です。

 だれが人のために死ねるでしょうか。イエス・キリストは罪人の私のために、あえて十字架にかかって死んでくださいました。十字架は私のためでした。罪を犯すたましいは滅びるしかありませんが、イエスは滅びないように身代わりとなってくださいました。その大きな愛を受け止めてください。主の祝福をお祈りします。May God bless you!
  1. 2008/07/06(日) 13:21:46|
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報酬

罪の支払う報酬は死です。
しかし、神様が、ただでくださる贈り物は、
私たちの主キリスト・イエスによる
永遠のいのちです。
 ローマ6:23


 罪の支払う報酬は死です。私たちは仕事をして、その報酬としての賃金をいただきます。最近は物価が上って、もっと給料も上ってほしいと願う人が多いのではないかと思います。しかし、なかなか給料は上りません。

 罪の働きの結果、誰でも報酬として死をいただくというのです。いくらいただくといっても死だけは欲しくはありません。欲しくなくてもこれは与えられるのです。逃れることはできません。死は罪の結果です。

 しかし、神は私たちに贈り物を与えて下さいました。主イエス・キリストによる永遠のいのちという贈り物です。しかもただでくださったのです。私たちに資格があったわけでも、功績があったわけでもありません。一方的に神が私たちにプレゼントとして提供してくださったのであります。

 ですから、その贈り物を喜んで受け取っていただきたいと思います。神がイエス・キリストのよって永遠のいのちを与えておられます。ずっと神とともに生きる者としてくださったのです。もう死や滅びから解放してくださったのです。この贈り物をぜひ受け取ってください。

  1. 2008/07/05(土) 18:07:15|
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輝かしい標準

すべての人は罪を犯しました。
神の輝かしい標準には
ほど遠い存在です。
  ローマ3:23


 あまり聞きたくない言葉でしょうが、すべての人は罪を犯しました。これはひとりとして例外はありません。肌の色が白かろうが、黒かろうが、黄色だろうが、地位があろうがなかろうが、男子でも女子でも、みんなの人は罪を犯しました。みんなが人殺しとか、盗みをしたという意味ではありません。

 神の目から見たら、すべての人はすべて罪の中に生まれてきたというのです。罪の性質をもって生まれたと。罪の性質があるから罪を犯すのです。教えられなくても嘘をつきます。人のものを欲しくなり、奪おうと考えてしまいます。ねたみ、にくしみ、殺意は誰でも持っている罪の性質であります。

 神の性質からはほど遠い存在となっているといいます。輝かしい性質。神は人は愛されますが、罪は絶対に許されません。罪を犯した人を何とかして救おうと、神はこの世にイエス・キリストを遣わされたのであります。輝いていなかった人が輝きを取り戻すために、この世に来てくださいました。罪から離れましょう。清い生き方ができるように、神のみもとにきて欲しいです。

  1. 2008/07/04(金) 17:16:27|
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あふれるほどに

わたしが来たのは、いのちを、
あふれるほどに与えるためです。 ヨハネ10:10


 わたしが来たのは、このわたしはイエス・キリストのことです。イエスがこの世に来られた目的は、人々にいのちを与えるためでした。しかもあふれるほどに与えるためだったのです。自分はなんのために生きているのだろう?と考えることがあるかもしれません。考えてもわからない。だれも教えてくれないものです。それは誰にもわからないからであります。

 イエスだけは目的をもって来られました。人々にいのちを与えること。生きていて幸せ、生きていて良かったという人生を与えるために来られたのです。あなたは生きていますか。生き生きとした人生を送っておられますか。もしそうでなかったら、主イエスがあなたを生かしてくださいます。

 枯れかけた草木でも水を与えると生き返ります。私たちのこころや、たましいも水が必要です。いのちの水を飲むならぐ~~んと生き返ることができます。枯れそうな状態でもだいじょうぶです。水を飲みましょう。主が与えてくださる水を、ただで飲むならいのちがみなぎることができます。

 あふれるほどに喜びや感謝がやってきます。そう、生まれ変わって変えられるのです。もう昔の自分ではありません。変えられるのです。求めましょう、主イエスを。


  1. 2008/07/03(木) 16:34:15|
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感謝をもって

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、
感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願いごとを
神に知っていただきなさい。 ピリピ4:6


 何も思い煩わないでいなさい。正直、今の時代は生きていくことが思い煩いとなる時代です。ストレス社会。人とのわずらわしさもあります。また、こう物価ばかりが上るとどうやってやりくりしたらいいだろうと主婦は悩んでしまいます。主婦ばかりでなく、だれでもそうでしょう。ニュースはあれも値上がり、これも値上がりときびしい現実を伝えています。

 あらゆる場合に祈りと願いを感謝をもって捧げなさい。あらゆる場合に感謝しなさい。愚痴は多いし、文句も多いですが、感謝することは少ない。反省するとそういうことになります。考えを改めて、まず感謝してみましょう。そしてありがとうのの気持ちで、神に祈り、願うのです。とうぜん神に祈るのであります。

 だれだって愚痴や、不平不満を聞きたいとは望みません。なのに神に愚痴ばかりで、感謝の祈りをしていないのであれば、神のもうよろしい、聞きたくないと言われるでしょう。感謝して祈って見て下さい。そうして祈りを神に知っていただきましょう。ア~メン。
  1. 2008/07/02(水) 16:50:00|
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