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世を愛して

実に神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、
世を愛してくださいました。それは、神の御子を
信じる者が、だれ一人滅びず、
永遠のいのちを得るためです。
 ヨハネ3:16

 聖書をダイジェストして表現するなら、上の文になると言われるほど有名な箇所です。神は世を愛してくださっています。世とは今の私たちの住んでいる世界です。その一人一人をさしています。神は私を愛して下さっています。そう考えたら、なんと神の愛は大きくて広いことでしょうか。

 神が愛してくださっていることをどうやって知ればいいでしょうか。神はご自身のひとり子であるイエスをこの世に遣わされました。そして私たちのために、イエスは十字架にかかり死んでくださったのです。そのことを信じる者は、だれ一人として滅びません。永遠のいのちが与えられます。永遠のいのちとは、たといこの世でいのちを失ったとしても、天の御国でずっと神とともに生きることのできるいのちなのです。

 死は恐怖ですが、このいのちをいただいたなら、死が恐怖でなくなり、希望へと変わるのです。滅びないということは、滅びることがあることを教えています。信じる者は滅びない。信じない者は滅びるということです。永遠のさばき、それが滅びであります。だれもそんな滅びは体験したくないはずです。
どうぞ、御子を信じて永遠のいのちを得る者となりましょう。

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  1. 2008/06/30(月) 17:09:00|
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支える

恐れるな。わたしがついている。
取り乱すな。わたしはおまえの神だ。
わたしはおまえを力づけ、おまえを助け、
勝利の右の手でしっかり支える。
 イザヤ41:10

恐れるな。取り乱すな。私たちは恐れに包まれるとパニックになります。自分を失ってしまうのです。そんな不安定な状況の中でも、神はそばにいてくださり、わたしはおまえの神だ、としっかりとご自身を表してくださるのです。恐れては何もできません。恐れからは良いものは生まれてきません。

神は私たちに「おまえを力づける。おまえを助ける」と言ってくださいます。頼りがいのある方なのです。苦しいときの神頼みとか、溺れる者わらをもつかむ、とか言いますが、そのような頼りないものにすがっても真の助けは得られません。

主は勝利の右の手で支えてくださいます。右手は権利の象徴、権威そのものを表します。力強い右の手でしっかりと支えてくださることを信じましょう。よく清水の舞台から飛び降りる気持ち、と表現されますが、何も支えがなければきっと大けがをするか、場合によったら死に至るかもしれません。仮に飛び降りるにしても、主が右手で支えてくださいます。ですから何をするにしても安心なのです。恐れないで生きることができます。主に信頼してください。
  1. 2008/06/29(日) 18:42:51|
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平安

わたしが与える平安は、この世が与える、
はかない平安とは比べものになりません。
だから、どんな時にも、おろおろしたり、
恐れたりしてはいけません。
  ヨハネ14:27

主イエスは私たちに平安を与えると言っておられます。平安は本当のこころの安らぎです。多くの人が求めていてもなかなか得られないのが、この平安ではないでしょうか。昔も今もそれは変わらなかったようです。京都のことを平安と言います。エルサレムも主の平安という意味があります。古今東西願うことは変わらなかったということでしょうね。

私が与えるのもはこの世が与えるものとは比べものにならないとあります。どんだけすばらしいのでしょうか。比べられないほどですから、よっぽどすばらしい平安なんでしょう。神がともにいてくださることを確信すれば、不安や恐れから解放されます。代わりに大きな平安が与えられます。

ですから、どんな時にもおろおろしなくなりますし、恐れたりしなくなります。突然何が起きるかわからない時代に生きています。それでもおろおろしなくてすむのです。恐がらなくてもすむのです。神がともにいてくださいますから。平安がありますから感謝です。

  1. 2008/06/28(土) 16:09:52|
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確実

人は、心で信じることにによって、
神様から正しい者とされ、
その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
 ローマ10:10

人は信じることによって、神から正しい者とされます。何を信じるのでしょうか。それはイエスが私たちの罪のために、十字架にかかって死んでくださったこと、死んで墓に葬られて、三日目によみがえってくださったことを信じるのです。私たちは生まれながらの罪人です。そんな罪人を愛して、イエスは身代わりになって死んでくださいました。そのことを感謝して受け入れるのです。

その信仰を自分の口で告白して救いの確信を得ること。「主イエスを信じます」と告白して祈るなら、だれでも救いを確実にすることができます。われわれの立派な功績によるのではありません。自分の口で「イエスは救い主です」と告白するだけでいいのです。

世の人はなかなかこのお方のところに来ようとしません。しかし、主のもとに来るならば大きな救いの祝福があるのです。臆せずに主のところに行きましょう。教会を遠慮なく訪ねてください。たいていの教会は日曜日に礼拝を行なっています。ぜひ一度行ってみてください。祝福を祈ります。
  1. 2008/06/27(金) 17:00:55|
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もう一度

どうか私を洗い、この罪からきよめて、
もう一度、潔白な身としてください。
  詩篇52:2

神に罪を指摘されたなら、このような祈りが出てくるのではないでしょうか。それとも知らないふりしてすますのでしょうか。人はごまかせても、神はごまかすことはできません。そう、ですから神の前に出たならば素直な心で告白し、祈ることが求められます。

私を洗って下さい。汗をかいたり、汚れたりしたらシャワーを浴びたり、風呂に入って身を清めます。汚れたままでは気持ち悪いからです。本人もそうでしょうが、周りの者にとっても気持ちよく思えないからです。罪は人を汚します。早くその汚れを洗い落したくなるはずです。神に願い求めましょう。「私を洗ってください」

この罪を清めてください。罪は具体的に示されます。抽象的なものであれば、本当に清められたのかわからないです。具体的に一つずつ清めていただくことが大事です。ですから一つ一つを神の前に告白して許してもらうことが望ましいです。

もう一度潔白な身としてください。私たちは失敗しますが、それを許して、もう一度立ち上がるチャンスを神は与えてくださいます。どんなに大きな罪であろうと許してくださいます。それをこころから許してもらえるように願うなら、チャンスをくださるのです。あきらめなくてもいいのです。神に近づきましょう。もう一度と求めましょう。神の祝福はそこから与えられます。

  1. 2008/06/26(木) 17:14:13|
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すべての人

すべての人は罪を犯しました。
神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
 ローマ3:23

教会に行く人は気高く、清い人たちと思われがちです。中にはそのような雰囲気をもった人もいるでしょうが、ふつう一般的には、教会に行く人は罪人であります。自分が罪人であることを認知している人であります。

成功したと願う人は多いですが、なかなか成功できないでいる。偉い人になりたい。立派な生き方をしたい。そのような願いはまちっがっていません。しかし、現実にはその願いはかなえられるのにむつかしさを覚えるものです。

いつもブレーキをかけるのが人の罪という性質です。すべての人は罪を犯しました。それによって神から離れたものとなってしまったのです。神の標準からすれば、罪を犯した人間は神の宮に入ることはできません。式典に出るのにふさわしい礼服があるように、神のもとに来るのには救いという服が必要なのです。汚れたままでは入ることは許されません。

主の前に罪を犯したことを認めることです。そして素直な心で悔い改め、神に近づくなら救いの服を与えられます。神の輝かしい標準に至ることができます。あなたの上に主の祝福がありますように。

  1. 2008/06/25(水) 16:48:04|
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罪人(つみびと)

私は生まれながらの罪人なのです。
母が私をみごもった時から、罪人でした。
  詩篇51:5

聖書はすべての人は罪人だといいます。これはツミビトと読みますが、普通はザイニンと読みます。ザイニンというと、犯罪人、すなわち法にふれる行為をして逮捕され、裁かれてしまう人たちです。人殺し、盗み、詐欺、etcです。

ツミビトは法律的な犯罪というのではありませんが、もっと深く、犯罪を起こす原因である罪を持っている人を表しています。罪を持っているから人は罪を犯すのです。罪は人の目から考える罪の程度ではなくて、神の目から見た罪の深さを意味します。

上の言葉を言ったのはダビデです。ダビデはイスラエルの王様でした。あらゆる権力を手にしていました。ある日のこと、部下の奥さんに好意を持って道ならぬ関係を持って子どもを孕ましてしまいました。それをごまかそうと、当時戦地にいた部下を呼び戻したのですが、部下は自分の家には戻らなかったのです。他の軍人たちが戦地で戦っているのに、家でのんびりとくつろいでおれないと考えたからです。思惑が外れた王は、その戦地で部下を殺すように将軍に文を部下に持たせました。そうして部下は戦死してしまいました。

明らかにダビデ王のやったことは罪です。人は隠し通せても神は罪を暴かれます。神に暴かれて、ダビデはこころから悔いて、自分は罪人ですと告白したのでした。それによってダビデは赦されましたが、彼の生涯の汚点としてこのことは残りました。どのような人でも罪の性質は持っています。罪を悔い改めないと赦しは得られません。神は罪を赦すお方です。その前に

罪を認めること、悔い改めて、その罪から離れることです。 Let's try !
  1. 2008/06/24(火) 16:47:45|
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人間を造ろう

そして最後に、神様はこう言いました。
「さあ、人間を造ろう。地と空と海の
あらゆる生き物を支配させるために、
われわれに最も近い、
われわれに似た人間を造ろう。」
 創世記1:26

天地創造の映画があります。神が天や地、空、そしてそこに住むあらゆる生き物を作られたことが描かれています。聖書には人を造られたことが書かれていますが、人は6日目に、しかも土のちりで造られたとあります。

6日目に造られたのには理由があります。もし1日目だったら、人は何を食べて、どこに住めばいいか、わかりません。まだ何もないからです。あらゆるものが造られて、備わってから神が人を造られたわけです。人への配慮だといえます。

さらに人には使命が与えられていました。地や空海の生き物を支配する使命です。自然の中で、秩序を保ってそれぞれが幸せに生きるために人に支配する権利を与えられたのです。しかも、人を神の形に似せて造られました。これは見える形というより、見えないこころとか、霊においてと考えられます。人間は神を思い、神を礼拝するのは自然な行為なのです。

神は人を愛してくださっています。どんな人をも愛してくださっています。それは神が私たち一人一人をお造りになったからです。あなたも神に造られた最高傑作なのであります。
  1. 2008/06/23(月) 16:30:00|
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望まれる生活

神を第一とし、神が望まれるとおりの
生活をしなさい。
   マタイ6:33

 生き方は人によってさまざまでしょう。祝福された生き方を望むなら、神を第一とした生き方です。神がいつも目の前にあって、神のみこころを求めていきるならば、祝福された最高の生き方ができます。

私たちは物質だけでは満足できないように造られています。いくら物にあふれた生活をしようとも、そのに住む人たちがこころ通わないなら、本当の意味で幸せとは言えません。人のいのちは持物に寄らないことも知っています。死んでしまえば、持っていたものは何にもならないからです。

 神を第一にして、神の望まれる生き方をしましょう。そうすればきっと、あなたはすばらしい「祝福」を体験できるはずです。私たちの生活に必要な衣食住にあまり捕らわれる必要はありません。むしろ、霊的なもの、こころを満たす生活を求めるべきです。あなたにもこの祝福が届きますように。

  1. 2008/06/22(日) 14:46:09|
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よろこびとしなさい

神様を喜びとしなさい。
神様は心の願いをみな、
かなえてくださいます。
  詩篇37:4

 病院に行って診察を待っていると、待合室にいる人たちは年齢もばらばらです。待ち時間が長いので手持ち無沙汰の人も多く、かかっているテレビを見るか、雑誌などを開いて見るかしておられます。若い小中学生は、ゲーム機を持ち込んで必死にゲームに興じています。きっと彼にはゲームが喜びなんでしょう。

 秋葉原の加藤容疑者は携帯の掲示板が喜びであり、慰めだったようです。そこで仲間ができれば幸せだったのでしょうが、最初はいたとしても、だんだんと離れていって、とうとうひとりで書き込んでいくしかなかった。それもむなしいことです。掲示板は彼に何を与えたのでしょうか。むなしさと、悲しさだったのではないでしょうか。

 神を喜びとしなさい。なんと神を喜びとするなら、神は心の願いをかなえてくださいます。ネットでは答えがなかったとしても、神はちゃんと応えて下さるというのです。神を喜びとするとはどうすることでしょう。それは神はわたしの一番の友であり、一番の生きがいであり、目標であると信じることです。神は私たちといつもともにいてくださることを信じて、生きるなら神がおられることと、神を求める人に報いてくださることを体験できます。

 それはけっしてむつかしいことではありません。神をまず信じましょう。そして信じて歩みましょう。神の祝福をお祈りいたします。

  1. 2008/06/21(土) 17:31:48|
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わしのように

しかし、神様を待ち望む者は、新しい力がみなぎり、
わしのように翼を張って舞い上がります。
いくら走っても疲れず、どんなに歩いても息切れしません。
   イザヤ40:31

 わしのように空高く舞い上がり、どんなことがあっても悠然としておれたらどれだけすばらしいことだろうと思ったことはありませんか。私は何度もあります。このあたりではワシとか、鷹とか、猛禽類が空を飛んでいます。からすとかも多いですが、ひときわワシなどは貫禄があって空の王者といった感じです。

 神様を待ち望む人は、あのワシのようになれるというのです。今は息切れして歩くことさえ困難と思っている人でも、神は神を求める者に新しい力を注いでくださいます。そして、その力でなんでもできるようになるのです。走っても疲れません。歩いても息切れすることはありません。

 多くの日本人は生活に疲れを覚えているのではないかと思います。物価も上っています。将来のことに対しても不安が尽きません。元気になる要素が少なすぎます。しかし、神を待ち望むならば、新しい力が与えられます。ぜひ、新しい力を受け取っていただきたいです。神を求めましょう。

                
  1. 2008/06/20(金) 15:02:26|
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神のことば

神のことばは生きていて、
力にあふれています。
   ヘブル4:12

 神の言葉は聖書のことです。聖書は生きています。言葉には人を生かす力もあれば、人を殺す力もあります。聖書も人を生かし、場合によっては人を殺す力があると言えるでしょう。生かすというのは、聖書によって励まされ、あるいはいやされ、また慰められたりするからです。

 殺すと言うのは、聖書の裁きのことばにより、それが実現されてしまうことからです。信じるなら救われるという約束を、本当に信じて従うならいのちが与えられるでしょうが、信じないで受け入れなければ救いは与えられません。その人の心の持ちようによることです。

 力にあふれています。イエス様も神の言葉をもって、人々に語り、神の言葉でもっていやしのわざをなさっています。また、サタンとの対決のときには、み言葉をもって対決し勝利されました。それは神のことばに力があるからです。私たちも言い知れぬ不安や、恐怖が襲ってくるときに、神の言葉によって強められましょう。神の言葉には力があり、私たちを生かしてくれます。

  1. 2008/06/19(木) 14:31:12|
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創造者

ただお一人の神様。神様は天と地と海、そして
その中に存在するすべてのものをお創りになり、
万物を支えておられます。
 ネヘミヤ9:6

 天を見上げると無限に続く宇宙を思います。青い空の向こうには何があるだろうか、と多くの人は考えることでしょう。地は私たちの住む地球のことです。最近はこの地球の環境問題が問題とされています。海も雄大です。日本は四方を全部海で囲まれていますから、海とはかかわりが深いですが、海の広さ、大きさは無限に続くようなイメージすらあります。

 これら、天も地も海も全部、神が創られたものです。ある人は自然にできたものだというでしょうが、自然界の営みの精巧さを見るとき、これが偶然にできたとは思えない、そこに神のご意思が働いているといわなければならないものがあります。神が創られた世界なのです。

 当然、地球にいる人も、動物も、植物、生物すべてにおいて神がお創りになりました。聖書は天地創造の出来事を創世記の始めに書いております。人も6日目に創られ、これに動物たちを支配する権利を与えておられます。

 自然が偉大であるように、それを創られた神は自然以上に偉大であると言わなければなりません。私たちは日常のことで、悩んだり、苦しんだりしますが、神の偉大さを知って、この神により頼んでみてはどうでしょう。きっとすばらしい生き方ができるのではないでしょうか。

  1. 2008/06/18(水) 20:15:34|
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勝利の右の手

恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない。わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
わが勝利の右の手をもってあなたを支える。
 イザヤ41:10

 私たちの神がいっしょにおられることを恐れる必要はありません。普通にしていれば神は私たちと共におられることは幸いなことです。実にもっとも良い友となってくださいます。ただ、私たちのうちに、やましいこと、罪深いことがあれば恐れなければなりません。そのときは素直になって神に悔い改めて神と正しい関係を持ちましょう。

 驚いてはならない。わたしはあなたの神である。神がおられることに気づいて驚くこともあるでしょう。神はあるときは、自然の中に、あるときは人々の中にいてみこころをなされるのですが、なかなかそれを悟れないものです。それでもきっと、神はご自身を示してくださるでしょう。驚くことはありません。神は私たちの味方となってくださいます。

 わたしはあなたを強くし、助け、勝利の右の手であなたを支える。なんと嬉しいことでしょう。私たちを強くして、支えてくださいます。勝利の右の手が支えます。孫悟空の仏の手ではありません。神の手はたとい地獄に堕ちようとしても、助けてくださいます。神が働かれるときに不可能はありません。どんな悪人でも救われます。真実に求めるものに助けの手を差し出してくださるのです。

  1. 2008/06/17(火) 17:23:46|
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恐れるな

恐れるな
わたしはあなたと共にいる。
  イザヤ43:5

 恐れるな、と聖書には何度も書かれています。私たちは何かが起きると恐怖心を持ってしまいます。例えば、宮城・岩手の大地震のような揺れが、もし自分のところで起きたら、悠然としておれないでしょう。慌てて外に飛び出して車にはねられた人がありましたが、きっと自分もそうなるかも知れないと思ってしまいます。

 恐怖はいつでも、どこででも存在するものです。歩いていると上から物が落ちてくる。あるいは暴走した車が飛び込んでくる。家に居ると地震があるかもしれない。車に乗ると事故にあうかもしれない。飛行機に乗ると落ちるかもしれない。とにかく考えたらキリがありません。

 新しいことを始めようとするとすごい不安や恐れがやってきます。しかし、神は恐れるな!といわれます。そして、わたしはあなたと共にいると言われるのです。自分は弱い、力の無いものと思えば思うほど不安や恐れは増すものです。そんな人に主は「あなたと共にいる」と語ってくださるのです。力強いお方が一緒に、しかも一番近くにいてくださるなら、恐れはなくなります。

 このお方はいつも私たちと共にいてくださいます。そして守ってくださるのです。不安を覚えておられる方は、ぜひこの主イエスにより頼んでください。恐れは消え去ります。祝福を祈ります。

  1. 2008/06/16(月) 15:13:41|
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信じる者に

信じない者にならないで
信じる者になりなさい。
  ヨハネ20:27

 廊下にあるロッカーに掛けてあるみ言葉です。4分の1の色紙にみ言葉が毛筆で書かれています。信じない者にならないで、という言葉は耳が痛いです。どれだけ私たちは信じない世界に入り込んでいるでしょうか。人を信用できない。人間を見たら泥棒と思え、などと教え込まれたら信じることはできません。

 知らない人から電話がかかってきたら警戒します。知らない人が不意に訪ねて来たら、きっと信用できないでしょうし、家に入れたりはしないでしょう。それだけ今は簡単に人を信じることができないのです。道を歩く時も周囲をよく見て歩かないとどんなことが起きるかわかりません。

 けれどもイエスは信じる者になりなさいと言われました。この信じない者は、ここの場合は使徒のトマスでした。彼は主が死んで、よみがえられたにもかかわらず、よみがえりの主に会っていなかったのです。他の使徒たちはすでに出会っていました。トマスは「この指をイエスの手の釘跡に差し込んで見ないと信じない。この手をイエスのわき腹に差し込んでみないと信じない」と話していました。

 イエスはそんな疑り深いトマスに対して「信じる者になれ」と語られたのです。この目で見、この耳で聞き、手に触って、口で味わって・・・と実際に体験しないと信じない、と思う人はほとんどだと思います。けれど、それでも見ないで信じる人はさいわいです。信仰は見る前に、さわる前に、味わう前に働かせるものです。疑うことは誰でもできますが、信じることは誰でもできるものではありません。これ!と思ったら、崖から飛び降りる思いで信じることも必要です。信じる者になりましょう。むつかしそうに見えても、意外と信じてしまえばそうでもない場合が多いです。

  1. 2008/06/15(日) 14:32:47|
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わたしが道であり
真理であり
いのちなのです。
     ヨハネ14:6

 廊下に掛けてある小さな色紙に書かれたみ言葉です。色紙にはりんごとレモンが描かれています。おいしそうなりんごです。普通の色紙の4分の1ほどの大きさです。

 わたしが道である、と主イエスは言われました。たいていは道を示すことはしますが、わたしが道だ、という人はありません。主はわたしが道です、と公言されたのです。この道は真理の道です。偽りのない、正しい道です。道があるから目的地に行くことができるように、主がいてくださるから、ちゃんと天の御国に行くことができます。

 この道はいのちの道です。この道を歩んで行くときに、本当に生き生きとなって歩くことができます。生きる希望が与えられるからです。生きる目的がはっきりと示されるからです。多くの人が何のために生きているのかわからないでいます。そして生きているのがつまらない、とか、おもしろくないと言っては望みを持てないでいるのであります。

 いのちはここにあります。主イエスの所に、いのちがあるのです。わたしが来たのは羊にいのちを得させ、豊かに得させるためだ、とあるとき主は語られました。いのちもビビッドに豊かに与えてくださるのです。この道を喜びながら進めるなら、あなたはハッピーです。どうぞ、主を求めて生きてください。道であり、真理であり、いのちである主イエスに求めていただきたいと思います。祝福あれ!

  1. 2008/06/14(土) 16:27:39|
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いつも、たえず、すべてのことに

常に喜べ 絶えず祈れ 凡てのこと感謝せよ         Ⅰテサロニケ5:16-18

 木彫りの壁掛けが礼拝堂にあります。これも私たちの結婚式のお祝いにいただいたものです。文章は文語体で書かれた聖書です。文語体は短い文ですので締まった感じがします。

 いつも喜んでいなさい。私たちの生活で、いつも喜んでいなあい、というとお目出度い人と言われかねません。喜ぶ要素が少なくなった気がします。買い物に出かけると、真っ先に値段が気になります。小麦で作られたものが値上がりしています。パンも、うどんも、ラーメンも。味噌、醤油も、マヨネーズ、マーガリンなどなど。

 車のガソリンも急激に上りました。なるだけ車に乗らないようにとなって、とても喜ぶ気持ちになれません。ニュースを見ると、自分の勝手な思いで、たくさんの人を殺したり、隣人の女性を殺して、死体をばらばらにしてトイレから流すなど、とても人間のすることではない痛ましい事件ばかりです。喜ぶ気持ちにはなれません。

 それでもいつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい、と聖書は勧めています。まず、凡てのことに感謝することを実践してみましょう。身近なこと、生きていること、与えられているもの、いのち、健康、着物、住む家、家族、友人、、と数えたらいっぱい感謝できるものが思いつきます。当たり前と考えていることが、本当は感謝することであるといえます。

 そうして、祈るのです。感謝できないことがあれば、感謝できるようにお祈りします。喜べないことがあれば、喜べるようにお祈りします。このように喜び、祈り、感謝を実践すると生きていることの意義、生きていて良かった、幸せといった思いに包まれます。さあ、実行しましょう。

  1. 2008/06/13(金) 17:03:53|
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互いに愛し合いなさい

わたしがあなたがたを愛したように、
そのように、あなたがたも
互いに愛し合いなさい。
  ヨハネ13:34

 今年の教会のカレンダーに載せているみ言葉です。一年もののカレンダーでイエスが羊を背負って山を歩いている絵が描かれています。イエスが1匹のはぐれた羊を山奥まで探し求めて、傷ついたその迷子の羊を助け出して、みんなの待つところまで担いでいる絵であります。

 わたしがあなたがたを愛した、とあります。愛されている実感のある人は、かならず幸せな思いを持つものです。愛された実感のない人は幸せな思いをもてないと思われます。愛されるべきときに愛される。普通のことなのですが、案外、自分は愛されていないのではとか、愛されなかったのでは、と愛を疑っている人が多いように思われます。

 わたしがあなたがたを愛した、と主は言われています。神なる主はあなたを愛して下さっています。それを実感していなくても、神はあなたを誰よりも愛しておられます。どうぞ、そのことを受け入れてほしいです。

 そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。私たちは、愛されることを求めますが、愛されるだけでは幸福とはいえません。本当は愛することができて、初めて幸せを実感できると思います。誰かを愛してみましょう。恋人を愛するのとは違って、友人や、家族、知り合い、初めて出会う人、とにかく愛して行くならば、そこに不思議な幸福感が与えられます。

 私たちの住んでいる社会に必要なものは、お互いに愛し合うことです。愛がなければむなしいものです。互いに恨みあうのではなく、許し合い、愛し合えるようになりたいものです。ガッドブレスユー
  1. 2008/06/12(木) 17:17:05|
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天にあるもの

あなたがたは地上のものを思わず、
天にあるものを思いなさい。
  コロサイ3:2

 短冊に書かれたみ言葉が教会の礼拝堂に飾ってあります。これは生駒聖書学院でいただいたものです。美香さんという方の作品で、毛筆で力強く書かれています。

 地上のものと天上のものとあることを示しています。地上とは私たちの住んでいる世界です。この世のものといえます。地上のものを思うとは、この世のものに執着することです。欲によって、世のものを愛し、それを求めることを指します。

 世と世にあるものは過ぎ去ると聖書は語っています。例えば、今は携帯は当たり前の時代ですが、十数年前には携帯もありませんでした。あればどれだけ便利だろう、と考えた時代です。そのかわりにポケットベルというのがありました。番号で誰が読んでいるかを知って、近くの公衆電話から電話する方法です。今はそんなものを持っている人もいないでしょう。

 今の携帯はただ単に話するだけでなく、たくさんの機能がついています。上を見ればキリがないほどです。人の欲望は際限がありません。テレビでも薄型が主流になりました。これもキリがなくいろんな種類があります。

 地上ではそのような目の欲や、肉の欲、持ち物の誇りを満たそうとするものばかりです。仮に手に入れても満足することはできない。ですから地上のものを思わずに、天のものを思うのがいいのです。

 天のものとは霊的なものです。持物でも満たされない世の中ですが、天のもの、神が与えられるものは豊かな喜び、平安、そして愛であります。それはお金でも得られないものです。天に目を注いで神を仰ぐとき、そこから神の大きな祝福が注がれるのがわかるでしょう。天にあるものを求めてみてください。
  1. 2008/06/11(水) 16:29:43|
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求めなさい

まず神の国と神の義とを求めなさい。
                      マタイ6:33

 板に彫られたみ言葉を礼拝堂の壁に掛けてあります。これは私たちの結婚式のときにH先生からいただいたものです。もう26年前のものです。黒い板に彫られて、白い色の文字が浮き出ています。

 まず求めなさい、とあります。求めるにおいて優先順位があるのです。人は何を一番に求めるでしょうか。生きるために必要なもの、たいていは食べるもの、着る物、住む家など生活に欠かせないものを求めるはずです。そしてそれらを満たしてくれるのがお金ですから、お金を求めようとします。

 そのために働くのですが、働きたくても働けなかったり、働いた割に報酬が少なかったりすると不満が出て来ますし、不安になったりします。明日はどうして生きようか、何を食べて生きればいいのか。明日の支払いをどうしょうと、お金で心配するのです。

 まず神の国を求めなさい。お金も大事ですが、お金よりもっと大事なものがあります。神を求めなさい、と聖書は言っています。真剣に神を求めるなら、神は私たちのことを守ってくださいます。助けてくださいます。明日の思いわずらいから解放してくださるのです。

 そうすれば、これらのすべてのものは添えて与えられます。神と、神の義を求めて生きれば、これらの必要のすべては、添えて与えられるのです。これは神の約束です。神は私たちを愛してくださっていますから、私たちの必要はすべてご存知です。神を慕い、求めて来る者に神は必要を満たしてくださるのであります。どうぞ、あなたもこの神を求めてみませんか。アァメン。
  1. 2008/06/10(火) 17:21:01|
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足のともしび

あなたのみ言葉はわが足のともしび、
わが道の光です。
  詩篇119:105

 毛筆で書かれたみ言葉をスティールに貼って壁に掛けてあります。これは京都福音教会にいた頃、誰かからいただいたものです。もう30年以上も前のものです。今でも礼拝堂に飾って、メッセージのときなどには指さしてみ言葉の大切さを話したりします。

 み言葉とは聖書のことです。聖書は私の足のともしびです。昔は電気もなく、足元を照らすときにはロウソクや、たいまつを使ったものです。月夜の明かりがあれば、まだましなのですが何にもない時には、明かりがないと歩くことも困難になります。

 足元を照らす明かりが必要です。足で歩きますが、歩みとは人生そのものであります。私たちの日々の歩みが暗くて見通せないならば、不安で不安でたまりません。明かりがあれば安心して進むことができます。その明かりこそ聖書の言葉なのです。聖書は英語でバイブルといいます。人生のバイブルこそみ言葉であります。困ったとき、苦しいとき、悲しいとき、そんなときに聖書を開くと聖書は慰めや励ましを与えてくれます。

 ぜひ聖書のすばらしさを知っていただきたいと思います。あなたの足元を照らしてくれ、あなたの道の光となって正しい道へと導いてくれます。アァメン!
  1. 2008/06/09(月) 15:32:09|
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正しい道

主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
  詩篇23:3

 礼拝堂の壁に貼ってある2ヶ月ごとのカレンダーにある聖句です。絵は左手に杖を持ったイエス様とたくさんの羊たちが水辺の近くの青々とした草を食んでいます。水は池のようです。池の向こうは山があり、山の上は青空が広がっています。

 聖書には羊はよく登場します。われわれを譬えて羊と呼んだりしています。主はその羊飼いであります。羊飼いは羊のことをよく知っており、羊は羊飼いに信頼してついていく。そのような絶対的な信頼関係があるのです。みどりの牧場、いこいのみぎわへ導いて下さるのも主です。

 主はわたしを正しい道に導いてくださいます。正しい道、真理の道へ導かれる。今、私たちの住んでいる世の中はなんと不正が多く、過ちが絶えないことでしょうか。凶悪な事件が起きるたびに悲しくなるものです。正しく導くべき警察官や、教師たち、果ては裁判官や公務員までもが不正を犯しています。裁く人が裁かれる事態に陥っています。

 主は正しいお方、聖なるお方です。そのお名前が汚されないように、正しい方向に導いておられます。それでも道から反れるなら、主はさばかれるでしょう。正しい道、真理の道を歩んでいこうではありませんか。

  1. 2008/06/08(日) 14:36:06|
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福音

すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。      マルコ16:15

 色紙に書かれた聖句を立派な額におさめて、壁にかけています。絵はあじさいのちぎりえです。これは、かつて北九州の門司にあった伝道所にいた時に、そこを離れて郷里の大隅に行くそのときに、伝道所に集っていた忠高校生たちが、別れの記念にプレゼントしてくれたものです。

 あのときは急に伝道所を離れて、開拓伝道に行くことになって、中高校生の兄姉たちには大きな心配と迷惑をかけてしまいました。それでもわれわれのために、お金を出し合って立派な額を贈ってくれました。今でもそれを見るたびに、あの頃のことが思い返されます。

 福音をすべての人にのべ伝えよ。イエスが地上での生活を終えて、いよいよ天に帰ろうとされたときに、弟子たちに向って語られた命令が、「すべての造られたものに福音をのべ伝えよ」でした。福音とは、よい知らせ(グッドニュース)のことです。最近の日本は、よい知らせに乏しいです。どこに行けばこのような福音に接することができるのでしょうか。

 福音とはイエス・キリストそのものです。イエスは私たちのために十字架にかかり、死んでくださいました。このお方を信じる者がひとりも滅びないで永遠のいのちを得るためでした。十字架の死が福音であります。そして葬られましたが、三日目によみがえられました。復活されたのです。そして今も聖霊として生きておられます。私たちも主のよみがえりの命を得て、永遠に生きるようにして下さいました。ぜひ、福音を信じて命を得てほしいです。永遠のいのちを受け取ってほしいです。アァメン!

  1. 2008/06/07(土) 17:03:49|
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主を求めよ

主を求めよ。お会いできる間に。
                         イザヤ55:6

 今年の目標聖句であります。礼拝堂の正面に毛筆で書いた用紙が貼られています。教会のH姉が毎年紙に書いてくれていますが、実際、横書きですので毛筆では書きにくいと思います。スペース的なことがあって、横書きにせざるを得ないわけです。

 主を求めよ、とあります。一番私たちが求めるべきものが、お金や物などの物質的なものでなく、私たちを常に正しい道に導かれる神、主イエスを求めなさいと聖書は勧めます。多くの人は幸せになるには、物や金さえあればいいと思っているかもしれません。しかし、日本はそのようなものは多くの人が享受してきましたが、それだけでは満足できないこと、幸せにはなれないことも知るようになりました。

 日本の自殺者は毎年3万人を超えています。いくら物の豊かさがあっても人の心は満たされないことの表れではないでしょうか。人の欲望は際限がありません。悲しいかなそのような欲におぼれて身を滅ぼす人もいるのです。

 主を求めるなら、たとい物に豊かでなかったとしても心は満足できます。主が心を満たしてくださるからです。主を求めましょう。いつでも求めることができます。しかし、お会いできる間に、とあるように。ずっと永遠に求めることができないことも教えています。必ずこの世の終わりはきます。自分の生涯の終わりがあるように、この世も終わりが来るのです。ですから今のうちにしっかりと、主を求めましょう。あなたの上に主の祝福をお祈りします。Amen!
  1. 2008/06/06(金) 17:42:41|
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石を投げる

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。
  ヨハネ8:7

 壁に掛けられている5月、6月のカレンダーの聖句です。絵は姦淫の現場で捕えられた女が広場に引き出されて、みんなの見せ物とされているところに、イエスが捕えた人に答えている構図です。

 捕えた人たちは律法学者たちで、当時の権力者でありました。イエスが律法に対してどのように対応するのかを試すために、この女性を連れて来たわけです。彼らにとっては女性はどうなっても良かったのです。イエスが「石を投げなさい」と言えば、なんと慈悲も情けもない、と反発したでしょうし、「許ししなさい」と言えば、モーセの律法に反しているととがめたでしょう。どう言っても不利になることを見て、無理難題を突きつけたのです。

 さて、イエスはなんと答えられたのでしょう。「罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」と語られました。石を投げることは律法に叶っています。しかし、それを実行できるのは今まで一度も罪を犯したことのない人に限ると言われたのです。すると老人から初めて、みんな手にしていた石を地面に落として、そこを立ち去って行きました。だれもこの女性に石を投げることはできなかったのです。

 私たちも人の罪や過ちをさばくことはできません。同じ罪を犯してしまうからです。イエスは「みんなはどこにいるのですか?あなたをさばく人はいなかったのですか」と女性に尋ねられました。「だれもいません」と女性は答えました。「わたしもあなたを罰しません。」とイエスは語り、この女性を許されたのであります。

 権力者は人を責めることはしますが、イエスは人の罪を責めることではなく、救うことをなさいます。どんな罪でも主イエスはゆるして下さいます。心から悔い改めていくならば、主は許されるのです。

  1. 2008/06/05(木) 18:42:50|
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野の花

野の花がどのように育つのか、
注意してみなさい。
  マタイ6:28

 今読んでいる聖書にはさんだ栞に書かれているみ言葉です。筆ペンによって筆記体で書かれています。鶏頭の花が描かれており、やわらかい雰囲気がただよってきます。

 野の花を見なさい、と主イエスはみんなに語られました。花は花屋にしかないのではなく、気をつけてみれば、野や山に、あるいは道端にも可憐な花を咲かせているものです。花は誰かに見てもらわなくても一生懸命に咲いています。もちろん見てもらえればもっと美しく咲くかも知れません。そんな花の一生を思うとなんと健気なことではありませんか。

 ここには注意して見なさいとあります。道端でも、野山ででも足を止めて見てみると、華やかさはなくても可憐に咲いている小さな花にも魅了されてしまうことでしょう。わが家の庭に隅っこではありますが、朝になるとピンク色のかわいらしい花が咲いています。名前はわかりませんが、毎朝咲くのを見て心が和みますね。花から与えられるものはいっぱいあります。慰められたり、勇気づけられたり、華やいだ気持ちにさせられたりと、その時々において与えられています。注意して花を観てみてください。

  1. 2008/06/04(水) 17:30:11|
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ただ中におられる

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

                              ゼパニヤ3:17

 これも手作りカレンダー6月号にある聖書の言葉です。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる、とあります。ただ中とは中心ということです。生活の中心、家族の中心、職場や学校の中心、運転しているあなたのただ中にいてくださいます。それは嬉しいことです。

 救いの勇士です。勇士とは戦いに勇ましいお方ということです。私たちは日々いろんなものと闘っています。その戦いに勝つときもあれば、負けてしまうこともあります。あまりにも相手がてごわく、手に負えないときには戦々恐々となってしまうでしょう。そんなとき、戦いの勇士となって主なる神が私たちのただ中にいて、戦ってくださいます。

 主は喜びをもってあなたのことを楽しんでくださいます。その存在を喜んでくださるのです。私たちはときおり、生きていることに脱力感を覚えることがあります。でも、主は生きていることはすばらしいと教えてくださいます。

 その愛によって安らぎを与えてくださいます。あなたは愛されています。神はあなたをこころから愛してくださっています。ですから、愛を受け入れてください。主は平安で満たしてくださいます。主はあなたのことを喜ばれます。晴れるや。晴れるやとは、主はすばらしいお方です!という意味です。そんなあなたを主は愛し、喜んで迎えて下さるのです。
  1. 2008/06/03(火) 16:49:12|
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喜びが満ち

あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
詩篇16:11

 今回からここにある壁や机、カレンダーなどに書かれている聖書の言葉を取り上げてみたいと思います。まずは、パソコンの横においている手作りカレンダーの聖句です。5月の分です。これは、長男たちが通っている教会が作成したものです。

 あなたは私にいのちの道を知らせて下さいます。命の道と死への道、どちらを選びたいですか。私は命の道です。道ですからどこかで別れています。その分かれ道で選択を誤らないようにしないといけません。主は私たちに命の道を教えて下さいます。「これが道だ。これに進め!」と示して下さいます。その道をしっかりと歩むなら命が与えられます。この道はイエスを信じて通る道です。

 主の御前には喜びが満ちています。この道を歩むなら喜びいっぱいとなります。どうしてでしょうか?心が新しく変えられるからです。どんな悲しみも喜びに変えてくださいます。また、私たちの目から流れる涙を主はふき取って下さいます。

 あなたの右には楽しみがとこしえにあります。右とは力、権威とか考えられます。私たちの存在(ID)が楽しみとなるのです。世のエンターテインメントなどによって、楽しみを得るのでなく、お腹のそこから湧き上がる喜び、楽しみを与えられるのです。心が主にあって充実するからです。今むなしい思いでいる方も変えられます。どうぞ、主イエスの元に来て見て下さい。主の祝福が与えられますから。
  1. 2008/06/02(月) 16:02:41|
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宝石より尊い

知恵は宝石よりも尊く、
あなたの望む何物も、
これと比べるに足りない。
 箴言3:14

 私たちの望むものは、何があるでしょうか。ある人は宝石かもしれません。世には何千万、何億円という宝石があるでしょうから、ルパン3世ではありませんが、そのような宝を狙いたくなるでしょう。けれどどのようなきらびやかな宝石で身を包んでも、それで満足はできないものです。宝物はいつか失われる危険性がありますから、誰かに盗まれはしないかといつも心配していなければなりません。不安がじわりじわりと心を占領して来るのです。

 ある人は地位を望むかも知れません。その地位につくにはライバルを落とさなければなりません。世の中には好意を持ってくれる人もあれば、憎しみを抱く人もあります。地位についても気持ちは落ち着かないのです。たえずライバルが狙っているからです。

 ある人は健康や、長寿を願うでしょう。それは悪いことではありませんが、いくら健康であったとしても、いつどのようなことで健康は損なうかわかりません。「あの人がまさか・・」と言った形で生涯を終えることはあり得ます。

 一番必要なことは知恵です。この知恵は上手に世渡りができるといった類のものではなく、本当に必要な道を知ることであります。聖書は「主を恐れることこそ知恵の基である」とあります。真摯になって、主を畏れ、従うことこそ知恵の初めであるのです。冨でも、権力でも、地位や、長寿でもなく、求めるべきは主イエスであると聖書は教えています。今こそ、知恵なる主を求めてほしいです。
  1. 2008/06/01(日) 17:37:48|
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